2011年12月24日土曜日

2011年

倦むこともなく、流れが岩から砂粒を剥ぐように、
人間も死によって人間性から剥がされて、ひとりひとり、
永遠の忘却の、巨きな拡がりのなかの無名の物質をみたしてゆく。
大海にも、日の明るい狭い岸辺があって、
深淵の深さを忘れさせてくれるように、
人間にも、声の還らぬ死者たちを守りながら、巨きな闇をふちどる、
黄金にかがやく岸辺がある。
人が描いたり、書いたりするのも、たしかにそのためだ。

                                                ピエール・ルヴェルディ(1889-1960)


今年を振り返って考えること。上の文章は、わたしが好きなある出版社が年頭の挨拶に用いていた文章である。今から何十年も前のことである。時折この文章を思い起こして励まされるが、東北の地で多くの方々を天に送ったこの年、わたしの研究室でひとりの院生を亡くした今年、そう感じる。

今年はわたしが若いときに聴いていた音楽を聴くことが多かった。そんな曲を聴くことができる店にもよく行った。先日、京都の古風なパブでJudy Collinsの歌に再会した。たぶん、ピエール・ルヴェルディの文章に出会った頃に聴いていた曲である。福岡に戻りyoutubeで探していたら、My Fatherという美しい曲に初めて出会った。

生き延びたわたしたちは、還らぬ死者たちの声と夢を聴き取って、歩み出すのだ。 


2011年11月10日木曜日

アゲハチョウが植物を味で見分けて産卵する仕組みを解明

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10年越しの共同研究の成果がようやく論文になりました。この共同研究は、JT生命誌研究館(BRH)で吉川先生が立ち上げられたプロジェクトで、尾崎さんが研究を始められ、私とフランスのフレッドのラボのメンバーが協力させていただきました。日仏共同研究の成果でもあります。以下はプレスリリースした文面です。

JTと九大でのプレスリリースの結果、ほとんどの新聞社が朝刊の記事にしてくれました。これはめったにないことだと思いますが「アゲハ・産卵」ということが一般受けしたからでしょう。各社の取材とメールや電話での対応に4時間以上の時間をとられましたが、これも研究者の社会に対する責務と思います。

ただ、取材を受けていて「遺伝子とは何か」の基礎的な理解を記者の方に持っていただきたいと思いました。遺伝子とタンパク質の関係について以下のようなことです。

「すべての細胞には中央図書館である核があって、核のなかの染色体に含まれるDNAに遺伝情報が書き込まれています。それぞれの細胞で必要なタンパク質をつくるための情報を図書館でコピーします。それがmRNAです。mRNAにはタンパク質のアミノ酸の並べ方の情報があります。」

☆ 概 要
 アゲハチョウ(ナミアゲハ)のメスは前脚で植物の葉の表面に触れて“味見”をすることで、幼虫が食べられる食草であることを見分けます。JT生命誌研究館の尾崎克久研究員、吉川 寛顧問らを中心とするグループとの共同研究によって、その味覚受容体タンパク質の分子的な実体を解明しました。本研究成果はNatureの姉妹紙のオンライン科学誌「Nature Communications」(1116日付)に掲載されました。

☆ 背 景
 アゲハチョウの幼虫は特定の植物だけを餌として発育するので、アゲハチョウのメスの成虫は植物種を正確に識別して適切な植物に産卵しなければいけません。そのためにアゲハチョウは前脚で葉の成分を“味見”していますが、そのためには葉に含まれる複数の化学物質の存在が必要であることがわかっていました。しかし、どのような味覚分子センサーが関わっているかは謎のままでした。

☆ 内 容
 本研究では、アゲハチョウの前脚で働いている遺伝子を解析し味覚受容体の候補遺伝子を発見しました。その遺伝子を昆虫の培養細胞で強制的に発現させて、葉に含まれる産卵刺激物質の一つであるシネフリンに対して特異的に反応することを確認しました。さらに、”RNA干渉法”とよばれる手法を用いて受容体の遺伝子の発現を抑制したアゲハチョウでは、前脚跗節にある化学感覚子のシネフリンに対する感受性が低下していることを電気生理実験により確認し、同時に産卵行動が抑制されることを観察しました。

☆ 効 果
 これまで、遺伝子レベルの研究が進んでいなかったチョウにおいて、産卵行動における味覚の役割を分子レベルで明らかにした成果はユニークです。今後、宿主と昆虫の関係を明らかにすることによって害虫の防除にも役立つ可能性があります。

☆ 今後の展開
 昆虫の食草の認識機構に何らかの変化が生じた場合、食草の変更が起こり、それが、種分化・進化の出発点となる可能性が考えられます。行動と遺伝子の進化の研究が今後展開していくことが期待されます。




2011年11月1日火曜日

もう11月

10月のブログ更新は1回だけでした。9月末に波乱のロシア旅行から戻り次の週には金沢に出かけました。金沢は学会でしたが食の世界がよかったです。その後は押し寄せてくる締切とたたかっていました。日曜日には徹夜もしました。でもまだ締切が過ぎた用件が山のようにあるのです。論文の査読もこのところ断っています。

            金沢で食した治部煮

2011年10月18日火曜日

エルミタージュにて

帰国前日の日曜日にペテルスブルグ市内に移動した。市内のホテルのフロントの人は英語が喋れて親切だった。ただ泊まったエコノミーホテルは一般住居建物のフロアを宿泊施設にしたところだったのでたどり着くまでが大変だった。住所は合っているのにホテルがない。しばらく彷徨って、裏通りから中庭に入ると入口らしき所を見つけた。呼び鈴を押してドアのロックを数秒間解除してもらっている間に中に入るというシステムが最初わからなかった。

                   ホテルの入り口

荷物を置いて近くのエルミタージュ美術館に出かけた。正門のすぐにある自動発券機で入場券を購入すると並ばないで入ることができる。エルミタージュ美術館はルーブル美術館の10倍以上の所蔵作品を有する世界一大きな美術館である。建物も絢爛豪華で、できれば2日かけてゆっくり見るのが良い。この美術館の展示の仕方はまったく無防備である。ダビンチの絵画を除いてほとんどの絵を間近に見ることができる。窓を開けていたりで太陽光に対しても気を遣っていない。

人は何のために絵画を見るのだろうか。ぼくは絵と出会って対話したいと思う。何らかのメーセージを聴きたいと思う。エルミタージュ美術館のある絵の前でぼくは長い時間立ち続けていた。レンブラントの大作である。もう一度ロシアに来る機会があるかわからないのでじっくりとこの絵を見たいと思った。

ガイドに案内された団体が入れ替わりでやってきていろんな言葉で解説を聞いて、多くの人が絵をデジカメに収めて通りすぎて行く。中国人は絵をバックに写真を撮るのが好きだ。ロシア人のガイドがきれいな日本語や中国語を話していた。

日本語と英語のガイドさんの話を聞いていると、この絵についてぼくが知らなかったことも話していて勉強になった。「この絵を観るためにエルミタージュに来る人もいます」という解説に頷いた。それはぼくだ!

             ロシア人ガイドの説明を聞く中国の団体一行


有名な絵をこのように観光として観て何になるかと思う。たぶん見たということが重要なのであろう。ぼくは一枚の絵の前にひとり立っていたいのに団体の流れは途切れないのだ。なぜ人は絵を観るのかという問いは、なぜ人は絵を描くのかという問題の裏返しではないだろうか。

そしてこの問いはさらに音楽や映画にもつながってゆくのだろう。言葉で書くのではなく、絵で、音楽でこころを表現するのではないだろうか。ぼくが一枚の絵の前に立ち続けるのは、ぼくが気に入った音楽を何回も聞き続けるのと似ているかもしれない。

2011年9月26日月曜日

サンクトペテルブルクの郊外にて

市内のホテルではフロントの人は英語が話せるが、学会が開催されたのは郊外のホテルだったので、貴重な体験ができた。

ホテルの受付に近づいてゆくと座っている女性が両手を横に振って来ないでと言っている。英語はだめだというサインである。ホテルの中にはなぜか迷彩色の服を着た軍人と思われる人がいる。

ホテルの地下のバーは降りていっただけではわからなかった。ドアを開けて入って歩いてゆくとバーがあった。たぶん日本の70年代頃の雰囲気である。入り口には用心棒の様な人が座っている。怪しげな赤と緑の照明の中、大音響で音楽がながれている。サーブする女性は絶対微笑まない。ウオッカのショットグラスが60ルーブルほど。朝の5時頃、酔っぱらいの現地の人たちが大騒ぎしてホテルから出て行った。

3食の食事はほとんど同じものが出る。自分でサーブする形式である。ワインはひどくまずいのでビールを買う。レストランのカウンター横のビールが置いてあるショーケースは常にロックされていて売り子の人にロックを外してもらってから開けることができる。なぜかいつも釣り銭がない。500ルーブル紙幣で釣り銭があるほどのビールを買わなくてはならなかった。ロシアのビールは100ルーブルほどであるが260ルーブルのドイツの輸入ビールを飲んだらとてもおいしかった。

ここに来る前にモスクワに3日間滞在していた米国人がいた。ガイドを雇って観光してきたという。ガイドがいないとどこに行くにも不自由だろうと言っていた。ヨーロッパから来ている人もロシアは初めての人ばかり。どこの国の人も査証を得るのに苦労したことを聞き安心した。

バスには車掌さんがいる。制服でないので最初はわからなかった。日本でバスに車掌がいたのはいつの頃であろうか。日本のバスの車掌さんはドアの横に立ってドアの開閉をしていた。ロシアの車掌さんは席が空いていると座っている。おかしかったのは、車掌がカードリーダーで乗車カードのチェックをしていることだった。


ペテルスブルグの地下鉄は核戦争の時のシェルターとして地下深く作られている。下が見えない。

ここで生き延びることができればたいていの国で大丈夫だと皆で話していた。

2011年9月9日金曜日

ロシア共和国入国査証取得までの道のり

外国に短期で行く場合に査証が必要なことは少なくなってきた。アメリカ合衆国は電子申請が必要でこのところ厳しくなったが。今回、ロシアで開催される学会に参加するために査証が必要だった。

学会に参加する場合はロシア内務省が発行する招聘状があれば問題なくビザが発行される。ところが、手違いがあって私には招聘状が届かなかった。その場合は、宿泊するホテルからの招聘状があればよいということで発行してもらった。申請には東京、札幌、大阪または新潟の領事館に出向く必要がある。行けない場合は、代行業者に代理申請してもらう。発行まで通常1週間かかるので2度東京に行くことを考えると1.5万ほどの手数料は仕方ない。

ロシアに一人で旅行する人はあまりいなく団体が多いと思う。その場合は、日本の旅行業者が手抜かりなく書類を作成するだろう。申請にはホテルのバウチャーと旅行業者が作成した旅行証明書が必要だという。旅行代金が支払われており現地では旅行会社がすべて面倒を見るという証明である。

さて、1回目の申請は、ホテルが作成した招待状にロシア外務省が発行した6桁の数字が書いていないという理由で受け入れられなかった。7桁の数字が書いてあったが6桁の数字が書いてあるはずという。学会主催者に助けを求めたところ旅行業者に旅行証明書を作ってもらうことになり送られてきた。そこには6桁の数字があった。その書類でロシア大使館に行ってもらったが、ホテルの滞在の日程と旅行業者の書類の日程があっていないということで受理されなかった。ホテルの宿泊は実際の宿泊とあっていたが、なぜかもうひとつの書類では1日短くなっていたのである。ロシア人はおおまかですね。

何回も書類の依頼をして、最終的に送られてきた10枚目の書類で上手くいった。スキャンした書類はすべてメールの添付で送られてきたが、コピーで良いというのは助かった。日本ではコピーの書類は認められないから。東京の業者、領事館、現地のホテル、学会担当者を相手にたいへんな2週間だった。

最終的に査証がもらえるのは来週の木曜日なので、私は金曜日に東京の旅行代理店に寄って査証がついたポスポートを受け取って、土曜に横浜の学会で話をしてその日の夜に成田から出発します。手続きがあと2日遅れていたらアウトだった。ロシアに行くのは諦めるしかないという思いが頭をよぎったことが1回だけあった。

1997年にロシアに行ったことがある。そのときの様々なトラブルの経験から、今回は何があっても驚かない、これで大丈夫と思っても裏切られることがあると覚悟していたが、まさか出国前にこのようなトラブルが待ち受けているとは思わなかった。

ロシアへの航路が少したいへんです。パリに早朝着いて、乗り継いでフランクフルト経由でサンクト・ペテルスブルグのホテルに入るのは夕方になります。

マルシェ

昔、共同研究の話し合いのためにひとりでディジョンへ行きました。訪問先のJが、明日の朝にマルシェに買い物に行くけど興味ある?と聞かれたのでもちろんと答え、朝、ホテルから待ち合わせ場所に出かけていった。彼の家庭では買物は彼の担当だそうだ。すべての食材を毎週マルシェで買うという。野菜、肉、魚、チーズなどあらゆるものを買うのにつきあった。ディジョン中心部ののマルシェはバレーコート2面分のほどの建物とその周囲に出ていた。Jは、店の人とは知り合いで、特に野菜売り場の人とは親しいようだった。挨拶を交わして雑談しながら買い物をしてゆく。チーズ売り場では青カビまみれのやぎチーズを勧められて日本へのおみやげに買ってくれた。買い終わると彼の登山リックが一杯になった。ラボに行って冷蔵庫に収納した。マルシェは好きでいつもパリで歩いて見ているが、現地の人が買うところを実際にみることができてとてもよい経験だった。

フランスでも大型スーパーができてそこで買物をする人が多くなっているが各地でマルシェは健在である。現地の人とスーパーに行ったときに、大量生産されていてどこでも売っているチーズをカゴに入れたらこれはやめておいたほうが良いと言われてた。そして売り子の人がいるスーパーのなかのチーズ売り場に行って、相談しながらお勧め現地特産のチーズを買うことができた。地方の特産物に対するフランス人の思い入れを強いことを感じることができた。

2011年9月3日土曜日

The Times They're A Changing

ぼくが若かった頃、ラジオから流れるビートルズやPPM (Peter, Paul & Mary)、ボブ・ディランを聴いていたとき、彼らが一体何を歌っているのかと知りたくて必死だった。学校帰りにレコード屋に行って歌詞を見たり楽譜の本を買ったりして数曲は訳していた。特にボブ・ディランの歌詞にはまっていた。PPMがディランの「時代は変わる」を歌うyoutubeの映像が懐かしい(Mary Traversは2009年に亡くなったが、If I had a hammerを歌うMaryが一番好きだった)。反抗的な人間であったぼくは「時代は変わる」の歌詞に悲しいほど酔っていた。そのころ息子であったぼくが父親という逆の立場に立っているのが不思議だ。しかし、若い人が大人の世界観や価値観に反抗するということが、いまの時代はなくなってしまったのはなぜだろう。一方で、その時代の「反抗」によって世の中は何も変わらなかったことを知らなければならない。

Come mothers and fathers
Throughout the land
And don’t criticize
What you can’t understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is rapidly agin’.
Please get out of the new one if you can’t lend your hand
For the times they are a-changin’.

ラテン語やドイツ語のクラシック音楽の歌詞は聴いていてもほとんど理解できないので原語と訳を見ながら聴いている。しかし、英語の歌については、最近そのようなことをしていなかった。ところが、先週、歌詞と訳を見ながら聴いているという方の話に刺激されて、自分も歌詞のテキストをiPhoneに入れて聴いている。すると自分がいかに聞き取れていなかったのかがわかる。PPMの時代の歌は英語の聞き取りがたいへん易しい。英語の歌を聴いてほとんど理解できるようになりたいが難しいですね。それにしても歌詞が簡単にダウンロードできるのは何と便利なことか。

神戸への旅行で昔の曲を聴いたのが刺激となって古い記憶がよみがえってきた。今朝、地下鉄の駅からこの建物に入るまでの間にこのようなことを思い出したのだ。

2011年8月25日木曜日

BRAQUE

神戸ポートアイランドでのシンポジウムが終わって元町の中華街で皆で食事をした後に、友人と別れてから店を探して歩いていた時に音楽を流しているバーを見つけた。古いビルの2階のドアを開けると広い空間にソファの椅子がゆったりと置いてあり、ビートルズの曲が流れていた。レコードとたくさんの洋酒のボトルが並んでいる。ジャズからポップスのレコードは2500枚。いろんななつかしいポップスの曲を選んで1曲づつかけてくれる。レコードbar『BRAQUE』はとてもよかった。

私が好きなフランスの画家のひとりであるジョルジュ・ブラック(Georges BRAQUE)の絵が掛けてあったが店の名前はそこからつけたようだ。マスターは2年前に脱サラしてこの店を始めたという。置いてあったスピーカーがTANNOY Arden mkIIだった。Queenなど数曲をリクエストしてかけてもらった。バーボンを飲みつつ、年代物のスピーカーが味のある音を出していて感激。偶然とはいえこんなすばらしい店に巡り会えて幸せだった。是非、もう一度行ってみたい。

Georges BRAQUE  Black Fish


学生時代、仙台の繁華街から少し横道に外れたビルの地下にあった音楽喫茶の「無伴奏」に一人でよく行っていた。細い階段を下ってドアを開けると、殺風景な穴蔵のような室内には両側の壁に椅子が並んでいて紫煙が満ちていた。その情景は今もはっきりと覚えている。1杯のコーヒーを注文して、小さな黒板にリクエストの曲を書いてバッハに聴き入ったり本を読んだりしていた。多数のレコードはバロックの曲だけだった。そこは話をするのも憚れるような場所だった。皆が同じように静かに音楽に聴き入っていた。読んだことはないが、小池真理子の小説「無伴奏」はここを舞台にしていて、彼女が高校生の時に通っていたことを知った。この店は1980年代に閉店したがマスターは仙台の郊外でチェンバロを製作しているという。「無伴奏」はあの時代にしか存在し得なかったと思う。いまはどこにもない青春の思い出の場所である。

仙台ではジャズ喫茶にも時々行っていた。マイルス・デヴィス全盛期の時代だったが、ぼくはあまり好きでなく古い曲を聴いていた。ジャズ喫茶に行くのも一人だった。ゆっくり音楽が聴けるのはそのような所しかなかった。燻っていた学園紛争が終わろうとしていた殺伐としたキャンパスを逃れて通っていたのだろうか。

最近見つけた福岡のジャズバーのBrownyはたぶん1970年以前のレコードしか置いてない。このように古いものがいろいろな街で生き延びているのはうれしい。

2011年8月9日火曜日

CV

c.v.(Curriculum Vitae)は履歴書のことである。ラテン語で「人生の活動表」といった意味でしょう。日本では履歴書のファームがあってそれを埋めれば良いのですが、英文では書くべき情報は決まっていますがフォーマットはありません。したがって、いかにして魅力的なcvを書くかがポイントになります。また当然、国によってその中身は変わってきます。

今回、外国籍の方を雇用することになり書類の準備していますが、日本の事務の杓子定規さにはまったくあきれます。これまでの旅費の支払いなどで同様な事務処理をしてきましたが、雇用となると事務方が要求することは細かいです。まず、履歴は元号にして小学校からの学歴を書く必要があります。日本では4月1日入学とか書きますが英語では年しか書きませんが(時には書かない)、少なくとも月を書くように言われました。どうも日本は形式を重視して、英語圏では内容を重視するような気がしてなりません。

わたしはどちらかというと履歴などはどうでも良くて生身の人間を見て判断をすればよいという感じです。私が好きでないのはコンサートのプログラムに書いてある演奏者のプロフィールです。どの先生について、どこに留学してだれの指導を受けたかが詳細に書かれているのだが、それがどうしたと言いたい。むしろ知りたいのは、どうしてある曲を選んだかなど演奏者の音楽に対する考え方だ。

葬儀の時に、その人がこの世でなした業績や受けた栄誉が述べられることがある。しかし、この世を去るとき、人はこの世での業績や成果などを持っていくことはできない。たとえ持っていったとしても何の価値もないであろう。そのようなものを一切持たないで去る人と比べて人の人生の意味と重さに何の違いはない。人は裸で生まれ、また裸で帰ってゆくのだと私は思う。



コメントが入れられるようにしましたが、反映されるまでには少し時間がかかります。

2011年8月6日土曜日

フランスとドイツ


2006年からそれまでのフランスに加えてドイツに毎年行っている。その回数は9回にもなった。当初は、ヴュルツブルク↑(Würzburg)でここ数年はミュンヘンである。Würzburgはロマン街道の起点の古都である。Würzburg大学にはHeisenberg先生がいて昔から行きたいと思っていたがその機会がなかった。彼が定年で大学を去る前の数年の間に訪問できてよかった。ミュンヘンは、郊外のマックス・プランク研究所に行っている。どちらでも毎回2週間ほど滞在して実験を行っていた。

ドイツに行くようになりフランスとの違いを発見した。まず、ドイツの鉄道、列車は日本と同じように時刻表通りに動いていることである。突然の車両故障によるトラブルやストもない。ドイツではすべての交通手段が堅実な雰囲気である。タクシーがベンツであるように。

ミュンヘンでフランス人と連れ立ってドイツ料理のレストランに行ったときの発見。フランス人はドイツ語のメニューを見てもほとんどわからないのだ。フランス人にとってドイツは外国であり、フランス語とドイツ語は全く異なる言語であるという当たり前の事実を身を持って知った。食事の食べ方においてもフランス人はそろってメインディシュの皿をパンできれいに拭っていた。またデザートは欠くことができないことであることも。彼がレストランを見回してフランスではありえない光景があると言った。隣に年配の8人の男性がテーブルを囲んでいたのである。何の集まりかしらないけどフランスでは奥さんを家において男だけがレストランに出かけることはないという。

フランス同様にドイツには残っている地方色がある。日本では大都市に行けば、いや中規模の都市でも、全国にどこにでもあるチェーン店がある。札幌でも九州の焼酎が飲める。古都ヴュルツブルクには昔ながらのワイン酒場やビール酒場が数えきれいほどあるが、そこのメニューにあるビールやワインの銘柄の多くはここでしか飲めないものである。この地方の↓フランケンワインがとてもおいしいことも驚きの発見であった。ドイツでも全国規模の銘柄もあるが、地方色が強いのである。料理についても決して同じではない。ヴュルツブルクのfederweiser↓(発酵が始まったばかりのワインで秋口にだけ飲める)は他の都市は出回っていないのだろう。ミュンヘンのそれは、イタリアやオーストリアからのものが多いという。ミュンヘンにも数は少ないがワイン酒場やビール酒場がある。一方で、若い人は新しい雰囲気の店に行くことが多いという。

2011年7月28日木曜日

フランス人はバカンスのために働く

フランス人とバカンスとの関係は一般に知られているよりもすごいと思う。フランスでは有給休暇の5週間を消化することは国民の権利であり義務である。これにはパートタイムの人も含まれる。実際、フランス人の有給の平均取得日数は37日であり93%の人が満たしている。出すまでもないが日本のデータはひどいものである。平均18日ある有給休暇の消化の平均は8日で完全に使っている人は6%にすぎない。

フランスでは、この5週間に加えてクリスマス、イースターとかの休暇が別にあり、それらを合計すると2ヶ月半の休みになる。フランスにいたH君は「フランス人は1年の半分しか働いていない感じですよ」といっていた。フランス人は残業をしないので年間の労働時間は日本人よりかなり短い。数年前には、週35時間労働でもよいとする法律ができた。ワークシェアするためにである。日曜日の過ごし方に休みに対する考え方が典型的に現れている。フランスでは日曜日に開いている店はほとんどない。日曜日は自宅でゆっくり過ごす日である。

夏のバカンスシーズンになるとパリにいるのはほとんど海外から来た観光客である。休暇に入って全員が一斉に出かけると交通の大渋滞が起こるので、地区によって時期を前半、後半と決める。近所のパン屋さんがすべて閉まると不便なので近所の店で話し合って休みが重ならないようにする。日本では年中無休が売りであるが、フランスではレストランもお店もバカンスで閉まる。医者もバカンスをとって病院が閉まるので夏に病気にならないほうがよい。

フランス人は買い物が好きでなく、また、あまり新しいものを買わない。日本人がなぜあんなにパリで買い物をするのかフランス人にとって理解できないだろう。フランス人の節約はバカンスのためでもある。バカンスの楽しい過ごし方こそが人生であるという感じである。どこに出かけるかは多様である。留守の親戚の家とか、友人の別荘とか、山のロッジとかに家族で車で出かけるとか。わたしの知り合いのエマはクルーズ船を持っていて地中海の島巡りとかをしている。バカンスとは文字通り「からっぽ」になることである。バカンスの間は、自然を楽しんだり、スポーツをしたり、趣味のことをして過ごすようである。したがって現地ではお金を使わない。日本人はどこかに旅行したら現地のお土産を買ってきて配るが、フランスにはそのような習慣はない。

では他の国ではバカンスはあるのだろうか。フランスほどでないが、オーストラリア、米国、カナダで見聞きしたところでは1-2週間ほどのバカンスを取っていた。バカンスから戻ってきたら実験のベンチが占領されていたということもあった。もちろんフランスでもすべての人がバカンスを楽しめるわけではないだろう。ある本に書いてあったデータによると、バカンスに行けない人が3割以上いて、高齢者、農業関係者、低所得者の人であるという。

日本では有給休暇の消化をなんとか増やそうという動きがあるが、余裕がある大企業は別にしてまったく改善されていない。わたしも有給休暇をほとんどとったことがない。子どもがいる家族が2週間の休暇をとろうとしても中高生の夏休みにはいろんな行事があり難しい。フランスでは休暇期間中には何もない。日本では何よりも費用がかかりすぎる。日本では混雑時期に格安チケットがなくなるが、北欧では皆が旅行する時期に安くするということを聞いたことがある。日本人のゴールデンウィーク、お盆、年末年始の休みというのは「バカンス」とは言えない。また、パック旅行も「バカンス」ではない。日本で「バカンス」を取れるのは大学生か定年退職後の人に限られるのではないだろうか。

cassis

2011年7月24日日曜日

never-say-die

正直、よほどのことがない限り米国に勝つのは無理じゃないかと思っていた。体格、スピードなどフィジカルが劣勢で、なにしろこれまで24戦で勝ったことがない相手だったから。でもある選手が「いいかげん、負け続けるわけにはいけない」と対戦前に言っていた言葉が印象的だった。

しかし、そのような状況にもにもかかわらず、なでしこの全員が懸命に献身的にパスを回し、チームワークで走り続け、実に執念のゴールを決めて同点にして、延長戦でまたリードを許し、後半でもうだめかという時に、澤が信じられない角度からシュートを決めて同点にして、PK戦となった。PKでは米国の最初のキックをGKがとめて勝てるような気がした。そして勝った。

ドイツとの試合前に監督は東北の震災のビデオを見せたという。ドイツのサポーターも日本を応援してくれていた。延長戦の後半の最後で岩清水がゴール前でボールを持ってフリーになった選手をタックルで倒してレッドカード退場となった。ロスタイムにゴールの真ん前でFKになった時はもうだめかと思った。でも彼女があそこで身を挺して止めていなければ負けていたかもというシーンだった。何回ももうだめかと思ったが、最後まで諦めなかった心が勝った。

2本のPKを止めたGK海堀の自然体のコメントがいい。「あんまり実感がわかないんですが、すごいことやったんですね。本当に信じられません。PK戦は試合で失点してしまったので、絶対止めてやるという気持ちだけで臨みました。アメリカはうまかったけど、それ以上にみんな頑張ったから優勝できたと思う」

技術的、体力的に劣勢でも気持ちで、心で勝ったのである。この感動のドラマのキーワードは「貧しさ、苦しさの中で、みんなで、あきらめない、折れない心、勝つという気持ち、笑顔、信じる」だろうか。その人生のドラマの瞬間を見ることができてほんとによかった。

このキーワードのようなことを英語でどう表現するかというと(ロイターの米国サイトにあった文章)、

The never-say-die team from Japan played their hearts out.
Japan played with awe-inspiring energy throughout the tournament.

澤のコメント訳
We had so much self-confidence all the way to the end and we all believed in ourselves all the way.

米国のエース、ワンバックのすばらしい言葉。
"Japan was playing with a very large 12th man; it's called desire and hope"
「日本には12番目にとても大きな人がついていた。その選手の名は〈あきらめない心です〉」

米国のGKのHope Soloのつぎの言葉もあった。(NY times)
“They’re playing for something bigger and better than the game,”“When you’re playing with so much emotion, that’s hard to play against.”
「彼女らはゲームをこえた、何か大きくてより良いもののために戦っている。そんなつよい感情を抱いたチームと戦うのは難しい」

フランス人の食への執念

フランスでは社員食堂がない場合は、会社が昼食代を出さなければならないという法律があります。1,000円ほどのチケットが支給されるのですが、それを使わないで貯めておいて夕食のディナーにも使えると聞いたことがあります。全額が会社負担ではなく少しだけは給料から差し引かれるようです。

フレッドがいる研究所INRAでは、1500円ほどするランチが500円以下で食べられ、国が一部を負担していると聞きました。外部の人は正規の料金を支払う必要であるので、わたしは訪問者の証明を見せるか、フレッドに支払ってもらうかしていました。ちなみに学生が支払うのは300円ほどです(手続きが必要です)。初めて訪問した時は昼食チケットをもらいました。訪問者があるときはフレッドがワインの小瓶を買ってくれます。感心したのは食券には食後のコーヒーのチケットがついていて、食事の後に2階のカフェでお茶をすることです。食後に1時間(食事が1時間+)も話し込んでいる職員がたまにいて、フランス人が怠け者といわれるのはこういうことね!と納得しました。

いずれにしてもフランスの「食」に対する執念はすごいです。INRAの食堂にはちゃんとしたシェフがいて、豊富すぎるメニューがあります。メインはいつも3種類から選択、サラダ、サイドメニュー、デザートも豊富にあります。確実に太ります。ラボのメンバーが全員で食堂に出かけてテーブルについて、最後のひとりが食べ終えるまで待っています。昼食が豪華なので、ここに滞在していたI君らは、昼食のときにもらった無料のパンで夕食を済ませていました!

訪問していたアメリカ人が「フランスの昼食はすごいが、そこで行われている研究の内容はいまいちだ」という陰口を聞いたことがあります。でも、アメリカの大学のカフェテリアの食事はカロリー計算なんかしていないジャンクフードが多くてこれも困ります。

andouillette

2011年5月15日日曜日

音楽遍歴

休みの日はラボの部屋で音楽を流しています。バッハが多いのですが昨日はショパンでした。ショパンが好きになったのはポーランドに行ってからでしょうか。それ以前はただ甘美なだけだと思っていたのです。 

曲自体の美しさだけでも聴いてもよいのですが、作曲者がどんな場所でどのような時代背景にあってその曲を作ったかを垣間見ることにより、より深くその曲を味わうことができると思うのです。ショパンの場合は、亡命国パリでの祖国に対する思いがその曲に込められていることを知ってからより好きになりました。

ぼくは、ある曲が気に入ったらほんとにしつこく聞き続ける癖があります。でもフォーレのレクイエムは、最初は良さがわからなかったのですが、何回も聴いているとだんだんすばらしさがわかってきました。夢はこの曲が初演された場所で聴くことです。でもミシェル・コルボ指揮の録音が最高です。

ミシェル・コルボはスイスのフライブルグ生まれ、そして演奏はベルン交響楽団。フライブルグとベルンには行ったことがあります。加えてこの演奏ですばらしいのが合唱団と歌手。この組み合わせで生まれた名演奏です。

ぼくがバッハを知る前に高校生の時から心酔していた作曲家がいます。マーラーです。でももうしばらく聴いていません。近年、国内でもマーラーが演奏されるようになりましたが、マーラーについては指揮者と交響楽団の名前を指定したくなります。4番はジョージ・セル指揮クリーブランド交響楽団とかです。 

通勤の帰路、ある美しいピアノ曲を繰り返し聴きながら帰ってきて別のことを考えました。作曲者から放たれた楽譜は別のところで演奏者が演奏する。それを聴くものは音楽そのものが聴こえてくるときに感じる世界がある。そこには作曲者の生き方も時代背景もないといえます。

作曲家についての日本でのイメージが現実の人物像とかけ離れてしまっている例があります。ドビュッシーがその代表例でしょう。それはたぶん学校で音楽の時間に鑑賞する曲によるのかもしれません。モネなどの印象派と呼ばれる絵画は日本人の好みですがドビュッシーは印象派と結びつけられています。それはそれで否定すべきこととは思いません。

2011年5月14日土曜日

君と好きな人が  百年続きますように

先週のゴールデンウィークで1日だけ休みが取れたので、映画 The King's Speech を観てきました。最後の場面では泣いてしまいました。良い映画でしたがもう一回観たいという映画ではありませんでした。

一方、「カサブランカ」(1942)は、何回観ても新しく気づくところがあります。前回の欧州行きの機内でまた観ました。いろいろなメッセージが隠されている。サムがピアノであの曲を弾かされる場面がすきです。Play it, Sam. Play "As Time Goes By." Oh I can't remember it, Miss Ilsa. I'm a little rusty on it. また、何度観てもラストシーンが好きです。

ピアノと言えば、"The Pianist"(2002)は、ロマン・ポランスキーの作品でユダヤ人ピアニストであるシュピルマンの経験に基づく映画です。ワルシャワが舞台であり、ショパンのピアノ曲が演奏されます。最初は機上で観て、映画館でもみました。昔行ったワルシャワがなつかしい。ワルシャワの大きな公園のショパン像がある池のそばで、夏の日曜日の午後に野外ピアノコンサートがある。ちょうど日程があって行くことができた。ワルシャワ蜂起の記念の場所にも。


ポーランド映画で最近観たのは「カチンの森」である。東京での用務が早くおわり岩波ホールで。重い映画である。巨匠という肩書きがつくアンジェ・ワイダ監督が何十年も待って漸く制作することができた、歴史的事実を明らかにする映画である。この映画には昔と変わらないクラフクの町並みが出てくる。

Halifaxは「赤毛のアン」のPEIへ行くときに必ず経由する美しい街で昔2回行きました。泊めてもらった大学の知り合いの自宅は湾の奥の海のそばにあってカヌーで海に漕ぎ出すことができる。映画の「ハナミズキ」にHalifaxが出てくることを聞いて、その映像を見たいがために観に行きました。出てきたPeggys Coveの灯台や街は知っているところばかりでなつかしかったです。

というわけで、タイトルは一青窈の「ハナミズキ」の歌詞からとりました。平和を願う愛の歌だと思います。

2011年4月22日金曜日

ショウジョウバエも「考えて」食べる

論文を出しました。

Drosophila Evaluates and Learns the Nutritional Value of Sugars. Current Biology (2011), doi:10.1016/j.cub.2011.03.058

以下はプレスリリースした紹介文です。出版社Cell Pressから大学の広報に連絡があり、広報の方から要請があったので、ちゃんと対応しました。新聞に掲載されることと論文内容の科学的な重要性は必ずしも正の相関があるわけでなく、また、新聞に出たこと自体を評価の対象とすることが好きでないので、これまでは、プレスリリースすることにまじめに対応していませんでした。でも、研究成果をこのような方式で一般市民に公開することも研究者の社会に対する責任かなと考え直しました。わたしは、高校生に対する啓蒙活動に長年、かなり時間を割いているのですが、こちらはあまり評価の対象とはならないかな。

「ショウジョウバエは糖の栄養価を判断し学習することができる」

■ 概要
 ショウジョウバエを用いた実験によって、ハエは味にだまされることなく、栄養価を体内で判断してエネルギー源となる糖を学習できることを発見しました。本研究成果は、2011年4月21日正午(米国東部時間)に、米国の科学雑誌Current Biology誌オンライン版に掲載されます。
■ 背景
動物が食物の栄養価をどのように判断して食べているのかはまだよくわかっていません。食行動には味覚による判断が重要ですが、美味しいものがすべて栄養になるわけではありません。
人間は、栄養学の知識無しで、自分にとって必要な栄養素を選んで食べることができるのでしょうか。これを解明する手がかりとして、ショウジョウバエをモデルにした実験を行いました。
■ 内容
ソルビトールという糖はショウジョウバエにとって無味です。しかし、ハエにソルビトールだけを与えると生き延びることができます。アラビノースという糖は ショウジョウバエにとって甘いのですが、まったく栄養価がありません。ショウジョウバエにアラビノースだけを与えると最初は食べますが、その後はあまり食 べなくなります。このことより、ショウジョウバエは食べた後に体内でその栄養価を判断しているということが考えられます。
 ソルビトール寒天溶液に匂いA、水寒天溶液にに匂いBをつけて、10分間食べさせてから1時間何もないビンにいれるという試行を4回繰り返した後に、2種類の匂いのどちらを選ぶかを調べたところソルビトールと組み合わせた匂いの方をより多く選んだ。この結果はショウジョウバエが栄養価を学習できることを示している。
 用いた匂いはショウジョウバエが本来、好きでも嫌いでもなく中立的な匂いです。糖と匂いの組み合わせは二通りで行っています。匂いは寒天溶液に混ぜなく、ビンの蓋につけました。
■ 効果
 ショウジョウバエがこのような能力を持っているとはこれまで誰も考えていませんでした。また、人間とショウジョウバエは多くの遺伝子を共有しているため、ショウジョウバエは人間の食行動と栄養学研究のための良い実験モデルになるといえます。記者さんからは、この研究は人間にどのように応用できるのか、どのように役に立つのかと尋ねられます。しかし、この研究は直ちに応用に結びつくものではありません。
■ 今後の展開 
今後は、ショウジョウバエの体内でどのように栄養価を判断しているかを解明します。また、糖以外の食物の選択にも同様なメカニズムがあるかを研究していきます。

                      イラスト 谷崎 美桜子


2011年4月6日水曜日

ソウル

福岡空港国際線ターミナルの搭乗口は若い女性の集団で溢れている。福岡からアシアナ航空で1時間。仁川空港に着くとリムジンタクシーの運転手が待ってくれていた。泊まったホテルはソウル中心部でフロントでは日本語も通じた。前夜も韓国の方との会食が韓国料理レストランであった。その後に韓流ミュージカル「Miso美笑」の観劇。


今回の訪問は国際シンポジウムでの講演のため。といっても国外からの講演者は日本2名、独米から各1名。韓国食品研究院のリーダーの方は東大の大学院を出ているので日本語でいつも親切に説明してくれた。いろいろな場面で日本語が通じるのは便利ではあるが、私は日本語で話すことに少し抵抗感があった。



シンポジウムを終えて大学の近くの焼き肉屋さんへ。頻繁に網を取り替えてくれ、肉をハサミで切ってくれる。終わりに挨拶を頼まれ「日本の科学は下降しているが韓国の科学は上昇しています」と正直に述べた。実際、欧米のショウジョウバエの著名な4つのラボでポストドクをしていた若手が国に戻ってきて、ソウルのそれぞれ別の場所でラボを立ち上げている勢いに日本は負けると思う。この宴会の場でも、研究を始めてからまだ1年の学生がやってきて私たちが発表した論文の中身について質問してきた。韓国では教師と学生の間にはまだ敷居があるというから、学生が直接私に話しかけてくるのは勇気がいったと思う。

翌日、研究室を訪問した後に空き時間があったので西大門まで送ってもらった。 日本は1910年から1945年まで韓国を植民地支配していた。その時に多くの政治犯が収容されていた(実際は収容されていただけではない)西大門刑務所が歴史館となっている。日本人はこの歴史を知っておく必要があると思う。ポーランドでアウシュビッツ収容所跡を訪問した時のことを思い出した。刑務所で受刑者たちは他の都市で建設する刑務所の 煉瓦を焼いていたという。見学を終えて外に出ようとして下を見るとその煉瓦が敷き詰められていた。多くの友人ができた韓国にまた来たいと思った。

この収容所で焼かれた煉瓦には「京」の印があるとの解説があった

ソウルの地下街は庶民的


2011年3月25日金曜日

そのとき私はミュンヘンにいた

欧州から戻って1週間が経った。今回の2週間の出張の後半は日本のことが頭から離れない毎日だった。

3月11日午後2時46分に東北で地震がおきた。その時、私はミュンヘンの研究所の宿舎にいて朝だった。大地震とわかり家族の者に連絡を取った。石巻に親戚がいたから。しばらくすると、海外の知人が心配して次々とメールをくれた。金曜日の夜は、街であったラボのメンバーの誕生日会に出てから宿舎に戻ったが、おびただしい被害を知り眠れなかった。その日に欧州を発ったJAL便は成田に着陸できなく函館に降りたという。

土曜日にミュンヘンからパリに飛んだ。空港の待合室のテレビでは福島原発の水蒸気爆発の映像が何回も流れ多くの人が心配そうに見ていた。パリのホテルに着くと、受付の人から、心配していましたよ、よく来れましたねと言われた。翌日の日曜日は部屋の掃除も断り、部屋に籠もってNHK-TVをPCのストリームでずっと見ていたら涙が出てきた。

海外の人の日本と日本人に対する同情と心配は深いと感じた。13日の夕方にはパリのノートルダム聖堂で日本の地震の犠牲者のためのミサが持たれた。

海外では原発のことが大きく取り上げられていた。ヨーロッパの人々はチェルノブイリの悪夢があるので敏感なのだ。私が一番問題だと思うのは、東電と政府は最悪のシナリオを隠していることである。ひとつは、福島の3号炉だけがプルサーマルでありプルトニウムが使われていることである。

NY Timesなどにはちゃんと書いある。なぜ日本の新聞は書かないのか。

No. 3 is considered one of the most dangerous of the reactors because of its fuel — mixed oxides, or mox, which contain a mixture of uranium and plutonium and can produce a more dangerous radioactive plume if scattered by fire or explosions.

加えて現在問題なのは、放射能がどこから漏れているかがまだわからないことである。わかってもそれを止めることはできるのだろうか。さらに、すべての原子炉の冷却能力が復帰したとしても、そのままの状態を何年間保たなければならないのか。

2011年2月18日金曜日

希望よ 走れ

夜中に目が覚めてイヤホンをつけるとなつかしい歌声が聞こえてきた。NHKのラジオ深夜便の歌、山崎ハコの「あなたの声」だった。深夜にふさわしい歌だった。

ハコの声には色がある。しかしその色は多色であって言葉で表すのは難しい。今から36年前、17歳の時に「飛・び・ま・す」でデビューした少女が、その面影を残して今も歌っている。彼女の歌はいつも心の底から溢れ出てくる叫びだった。彼女自身は明るい人であるが、歌のなかでハコは悲しみや絶望を歌うことが多かった。そのような心の闇をだれもが持っているはずなのに、わたしたちは日常生活では他人に見えないように隠している。しかし、ハコはそれを包み隠さず歌っていた。

若いときに歌っていた人の中には、もう歌わなくなった人や、懐メロ的に歌う人、そして今もかわらず歌い続けている人もいる。山崎ハコは商業ベースから離れて中断を経験しつつ、人生の歩みとして歌い続けている。

そして、いま、暗い夜にあって、過ぎ去った昔を振り返りつつも、選んだ今の生き方を受け入れ、そして愛して、未来の希望を見据えている。「夜の空を 希望よ 走れ」という願いは少し切ないけれど、確かにあたたかい。

2011年2月16日水曜日

自動改札機がないドイツ

東京でも福岡でも複数の交通機関で1枚のICカードが使えるようになり切符を買う手間がなくなり便利になった。しかし、しっかりと料金を支払わされている。東京から帰りの飛行機の中で、ふとドイツのことを思いおこして書いてみた。

ドイツの切符のシステムは基本から日本と異なっている。 まず、駅に改札がない。ないというのは正しくはなく、プラットホーム、バスの車内にある機械に切符を挿入して自分で刻印しなければならない。1回乗車券のほかに回数券のようなものがあり、ゾーンに応じてポイントを数えてそこに刻印する。

改札ゲートがないので自転車の持ち込みも楽である

普通の一枚切符は刻印して1時間は有効なので、何度も乗れるというシステムは便利である。すばらしいと思うのは複数人数用の切符で、同じ行程をゆく場合は1枚の切符を買えばよい。友人や家族での移動によい。 1回乗車券は日本と比べると高いが、割引料金の種類が多い分得した気分になれることが多い。

日本で自動改札機が目の前でバタンと閉まったことがある。カードの読み取りが上手くいかなかったのである。早い速度で通過しようとしていたのでかなりの衝撃があった。それ以来、改札機を通ることが少しトラウマになった。自動改札機がないドイツに来るとほっとする感じである。

ドイツでは正しい切符を買って乗車することが自己責任とされている。もちろん無賃乗車をすることも可能であるが、時々ある検札で見つかれば、いかなる理由を述べたとしても、たとえ観光客であっても、高い罰金を支払わなければならない。検札する人は私服で、挟み撃ちにして始めるので逃げることはできない。私はロシアのバスでそう言う目にあったことがある。切符を持っていても刻印を忘れていたら言い訳はできない。だれも刻印していないから大丈夫と思ってはだめだ。現地の人はパスを持っているので何もしないのである。

ミュンヘンの空港から鉄道に乗る時におもしろいことがあった。ホームの自販機の前でドイツ語の解読をしていると、空港駅についたばかりの人が切符を見せてこれを半額で買わないかという。それは1日券で、あるゾーン内の乗り放題の切符だった。最初は何かあやしいのではないかと疑ったが、かしこいやり方と気がついて買った。売った人も買ったわたしも半額で済んだわけである。もちろん、正規の片道切符より安い。1日券は一人の人が使わなければならないという規則がないことを確認してはいないが、賢いドイツ的?節約法ではないだろうか。

長距離の移動はドイツ新幹線ICE(Intercity-Express)である。(長距離の鉄道駅では欧州のどこの国でも改札ゲートがない。ユーロスターはあったが。)日本でインターネットで予約購入し送られてくるPDFファイルをプリントアウトして持参して乗車すればよい。いわゆる早割は日本の新幹線の料金と比べると驚くほど安い。少しわかりにくいのは座席の指定である。座席の上に掲示に区間が表示されている場合は指定した人が来ることがわかるので、その区間以外、あるいは指定がない席に座ることができる。

さて、ドイツの古都 Würzburg バスの車内のアナウンスは小学生の子供の声だった。「次の停車は○○です。」停車ごとにちがう子供の声で終点は全員が言う。とてもかわいくて和みます。

2011年1月21日金曜日

パパの食習慣は子どもの遺伝子発現にまで伝わる

後天的な経験(獲得形質)が遺伝することは否定されています。しかし、昨年出た二つの論文は父親の食事内容が子どもにも影響を及ぼす可能性を示している。


ラットの雄に高脂肪の食事を与えメスの子孫の膵臓の遺伝子発現を調べたところ、インシュリンやグルコース代謝に関わる遺伝子の発現レベルが変化していた。特にインターロイキン受容体遺伝子の転写開始点の近くのメチル化が少なくなっていた。
Ng, S.-F. et al. Nature 467, 963–966 (2010)

別の仕事では、低タンパク質のエサをマウスに与えたところ、子孫の雌雄で脂肪、コレステロール代謝に関わる遺伝子の発現パターンが変化しており、同様にDNAのメチル化が変化していたという。
Carone, B. R. et al. Cell 143, 1084–1096 (2010)

母親の食事であれば卵細胞への影響が考えられるのですが、父親というのが驚きです。"epigenetics"がこれから注目されるのではないでしょうか。食事だけでなく、運動とか、精神的なストレスとかも影響するかも。

教養の遺伝学の講義では「獲得形質は遺伝しないんですか」 という質問がよくでる。ルイセンコの話を出しながら教科書的には否定して答えていたのですが、このような遺伝子発現のデータが出てくると再考する必要がありますね。

2011年1月7日金曜日

サンデル先生のハーバード講義

お正月にうわさの講義の放映を見ました。「なるほどこういうものなのね」というのが感想です。大教室で録画がなされているという状況にもかかわらず、先生の問いかけに対して多くの学生が冷静に発言していました。もちろん居眠りしている学生は映っていませんでした。日本の講義でも学生がこのように質問してくれるとよいのですが。やはり幼児期からの訓練の違いによるのでしょう。また、この講義には多くのTAがついていて入念な準備と反省による改善が行われているのもポイントでしょう。

サンデル先生は学生の発言を上手に切り取って話を進めていくやり方がうまいです。乱れることなく進めるのがプロですね。しかし、問いは極めて類型的で答えも予想されるものばかりですので、同じような講義を何年かしていればあのようにできるのでしょう。

哲学の内容については一般教養として教えるにはこの程度でよいが、こんな講義を毎週聴講しても表層的な哲学の知識しか身につかないでしょう。サンデル先生は政治哲学が専門だそうですが、講義は「だれにでもわかる実践政治哲学入門」といった感じです。ほとんどの学生が理解できるようなレベルです(高校生でも理解できる)。このようなレベルの内容で本までが出版されて売れているというのが理解できないです。

哲学をわかりやくすく説明する話としては、20年前に出てベストセラーになった「ソフィーの世界」という本を思い出します。アマゾンで調べると中古のトップには「271点 中古品1円」とありますが、サンデル先生の本もそのような運命をたどるのではないでしょうか。

ネガティブに書きましたが、身近なところから政治哲学を考えるきっかけを与えるトークとしてはたいへんわかりやすいものでした。ただ、私も講義の時には日常性から出発することに心を配っているのでサンデル先生の講義にそれほど新鮮味を感じなかったのです。

付け加えれば、問いの設定が極限的であるために対立的な考えが出るのは良いのですが、そのことによって問題の多面的な見方ができなくなっているのではないかと思いました。