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2022年8月6日土曜日

北海道カボチャ

先日札幌で、北大に就職したドイツ人と話をしていました。彼がドイツで「日本の北海道に行く」と言ったら皆に「ああ、カボチャのところね!」と言われたそうです。ドイツのスーパーに行くと「Hokkaido Kürbis」というかぼちゃが売っているのでみんな知っています。カボチャ=北海道です。Hokkaidoカボチャは欧州の他の国でも売られているそうです。Hokkaidoが日本にあることを知らない人もいると思う。でも北海道という品種のカボチャは日本にありません


京都は、1997年の気候変動に関する国際会議で採択された「京都プロトコール(議定書)」としてドイツで知られているのは意外でした。他の日本の都市では鈴鹿が有名だそうです。東京に加えて、広島、長崎はもちろん知られています。

ドイツ人の彼が日本のスーパーで見つけて笑ったのはフランクフルトソーセージだそうです。


 

2021年2月17日水曜日

東ドイツ生まれのアンペルマン

 

共産圏の東ドイツのデザインは建物にしても暗くて映えなく、遊び心があるかわいいデザインなどないと思っていました。

ところが、マグデブルクでスーパーに行く道で、歩行者用の信号に男の子と女の子を見つけて見方が変わりました。アンペルマンは、1961年に東ドイツの交通局に勤めていた交通心理学者カール・ペグラウさんが考案しデザインしたものでした。女の子のアンペルフラウは東西統一後に出てきました。

統一後に東ドイツの信号機が西ドイツのものに取り替え始められたのですが、アンペルマン復活の市民運動がおこり、アンペルマンが生き残りました。そればかりか西でも使うところがでてきました。ベルリンにはアンペルマンショップがたくさんあり、いろんなグッズが売られています。

(オランダのユトレヒトには1箇所だけにミッフィの信号があります!)

2021年2月16日火曜日

旧東ドイツに学ぶ男女平等

以前は東ドイツ(DDR)だったマグデブルクに3年前に滞在していた時に学んだことのひとつは、東ドイツでは男女平等が西ドイツよりも幅広く実現されていたことです。ドイツで初の女性首相となったメルケルは東ドイツ出身の物理学者であったことが象徴的です。東は経済的に豊かでなく監視下で不自由な生活をしていたという印象を抱いていた私には新鮮な発見でした。

ネットで調べると東ドイツの男女平等に関する多くの記事が見つかります。今回「あごら」117号(1987)に掲載されていた「フェミニズム運動のない国 東ドイツの女たち専業主婦のいない国 医療も完全平等」を見つけて読みました。東ドイツから、議会議員と看護婦の方が来日して日本の女性団体の集まりで講演した内容を読むことができます。以下にその抜粋を掲載します。


(フェミニズム運動のない国 東ドイツ - 国立女性教育会館 でググるとPDFのサイトが出ます)

1949年に発効した私たちの最初の憲法は、男女は法の下において平等であると規定し、これに反する法律はすべて無効としました。

DDRの最初の憲法で原理として最重要視したのは、入閣の自由と権利の保障でした。その内容は、男女だけでなく、階層や宗教による差別をいっさいなくすことであり、少数民族の差別の撤廃も目指しました。

この問題の解決にあたって、私たちの国家と党は、三つの重要な原則から出発しました。

1 女性問題は、社会全体の発展の諸問題を解決することによってのみ解決することができる。
2 女性の解放をめぐる闘いの鉾先を男性に向けることはできないし、向けてはならない。なぜなら、それは男性の責任ではなく、旧来の社会体制の責任だから。
3 女性に対する援助は、特権を与えることではなく、母性に関係した社会的不利益をなくすためにある。

しかし私たちのDDRでも、女性のために多くの資金が投入されている反面、莫大な軍事費支出を余犠なくされています。私たちは軍事費を一マルクでも減少させ、その分、社会福祉に役立てたいと考えています。我が国の最大の使命は、ドイツの地から二度と戦争を起こさないということです。


このような出発があった結果として、東ドイツでは、1989年時点で現役世代の女性の91%が働いていたそうです。子供を預ける保育園は無料でした。統一後に西では東に倣って保育所が整備されたそうです。今でも、私たちは昔の東ドイツから学ぶことができると思うのです。東における男女同権は、労働力を上げるためであったという動機があったのですが。

2020年11月11日水曜日

ドイツでの暗闇の夕食 適正な明るさについて

30年ほど前に初めてドイツに行った時のことを思い出した。研究所に有名な昆虫生理学者のラボを訪ねた。セミナーの後で、先生の自宅に招待されて先生自ら夕食を準備してくれた。先生は一人住まいだった。あなたは疲れているからソファで横になって休んでいなさいとオレンジジュースを出してくれた。

夕食が出来上がって二人で話をしながら食べ始めた。日が暮れて部屋がだんだんと暗くなっていくのに先生はなかなか照明を点けない。暗闇の中で二人で話していた。何を話していたかはもちろん覚えていないが、暗い部屋の中の情景ははっきり覚えている。高齢の著名な先生が日本から来た若造に夕食を手ずから準備してくれるなどという体験があったことは、いまでも信じられない。

海外で煌々と明るい家には日本人が住んでいると言われるそうだが、日本の夜、室内は明るい。海外では、スポットライトを用いた局所的な照明が一般的だ。それもタングステンの赤い光だ。それはホテルでも同じ。国際線の飛行機内の照明も日本のエアラインは明るい。生物学的には、夜は暗くなるほうが生物時計にとって好ましい。明るすぎると時計はまだ昼かと思ってしまうからである。そして夜更かしの生活になる。

 日本の夜の室内照明が明るくなったのは、戦後、経済成長が著しかったころではないだろうか。人々は明さが豊かさ象徴と誤解したのではないか。節電的にも、生物学的にも夜は暗い方が望ましいが、どのようにしてその変革が始まるのだろうか?



2020年11月4日水曜日

ヨーロッパ、哲学、音楽、歴史

これまで、フランス 、ドイツ、ポーランド 、インド、韓国の研究者と共同研究を行って論文を出すことができました。私が欧州に行くようになったのは2000年以降、韓国とインドは2010年以降です。それ以前は米国にばかりに行っていました。なぜなら、米国の科学研究は世界の最先端をいっており、大学や研究所の体制が優れていると思っていたからです。一方、欧州の科学は一歩遅れていて、行く価値はそれほどないと思っていたのです。学会などの学術集会も米国で開催されるのばかりに参加していました。しかし、米国の研究者との共同研究の論文は1編しか生まれませんでした。それも、last authorを米国の研究者が要求しました。

世界に先んじた研究を日本で行っても米国の研究に先を越される経験を何回かしたことがあります。米国の研究がトップを行っており日本の研究はその下を行くと思われている。もちろん、ノーベル受賞者を見ればわかるように日本がリードした研究はありますし、近年では米国、欧州でPIとしてラボを率いている日本人の研究者は増えてきました。

日本と米国の不均衡な関係の背景には日米の戦後史を無視することはできません。日本は戦後も米国の支配下にあり独立国家とは言えません。それは、沖縄を初め各地にある米軍基地を見ればわかります。基地とその上空は米国のものです。日本が米国の保護国であるという印象は多くの白人の米国人が抱いているのではないだろうか。

さて、 欧州の研究者と共同研究を始めると、対等な立ち位置でできることがわかりました。彼らも私たちと同じように、米国に対して対抗意識があるので共闘できます。フランスやドイツに行き始めて、その国の人々の半数ほどはアメリカ合衆国に対して良い印象を抱いていないことを知りました。アメリカナイズされていた自分には驚きの発見でした。少数ですがフランスには英語を話したくないという学生が今いました。

米国の研究者とそのような話をすることは皆無ではないが、欧州の研究者と親しくなってわかったのは、歴史、政治の話が普通にできることです。欧州に行くようになって、私は若いころにフランスやドイツの哲学、文学や音楽によって養われていたことを思い起こした。パリのカルチェラタンの通りを歩く時に、同じ道を歩いていた先達を思い出す。

 


2018年11月22日木曜日

ドイツの朝は早くて、帰りも早い

ドイツでは朝は5時過ぎに起きて7時半にはラボに行っています。起床してから1時間半以上のゆったりした時を持てるのは、これまでの人生ではなかったことで精神的に充実しています。ゲストハウスからラボまでは歩いて2分ですから1時間以上かかっていた現役時代とは雲泥の差があります。

ゲスハウスの世話をしてくれているおばさんは朝6時から働き始めます。いつも、朝の挨拶をしてくれて、遠くにいる時は手を振ってくれます。彼女はドイツ語しか話さないのですが、この朝の挨拶だけで心が通ってあたたかい気持ちになります。

研究所に着くと朝からロビーでお茶をしている皆さんがいます。朝から優雅だなと最初は思ったのですが、早朝からの仕事を終えての一休みであることがわかりました。

このように研究所は朝早くから始動しています。ラボの秘書の方も朝7時半に来ます。朝早くから働いていた人は早く帰ります。昼過ぎから帰っていく人が見られます。ポスドクの人でも日によって4時には帰る方がいます。子供の迎えをするそうです。

日本であれば、仕事が忙しい時は夜遅くまで働いたり、土日も出て来たりが当然ですが、ドイツの人は夜まで仕事をすることはなく土日も仕事をしません。もちろん、何事にも例外があって土日も来ている人は極少数います。しかし基本は、働く時間が決まっていて、それ以上に働くことはしないのです。だから、彼らが忙しいと言っている状況は、私から見るとまったく忙しいことにはなりません。

不思議なのは金曜日の午後は早く帰る人が多いことです。土日が休みであるなら金曜日は夕方までちゃんと仕事をしようとは考えないのです。ドイツ人にとって日本の過労死(karōshi)は想像もできなくありえないことです。

2018年11月19日月曜日

インドから来た院生

私が座っている場所から見える窓の外の風景
インドのバンガロールにある研究所InStemのラボと共同研究をしている関係で、相手ラボのマスターの学生を2週間ドイツで実験指導することになっていました。その計画は2月にインドに行ったときに決まっていました。

今年の3月にはデリー近郊の研究所の院生を名大で実験指導をしました。退官後にこのように、他の研究者のための手助けができることはとても嬉しいことです。来週にはフランスに行って実験指導をします。海外ではこのようなことを行う垣根が低いと思います。

彼はバンガロールからムンバイに飛びましたが、そこからフランクフルト行きの便に搭乗することができませんでした。なぜなら、前日にゲットしたビザが有効になる日付が1日遅かったからです。ところが翌日の便はなくて、ムンバイに2泊してからドイツに入国できました。彼にとって海外は生まれて初めてで、さらに飛行機に乗ったのも初体験でした。


そのことを聞いて私が大学院生の時に米国に行った時のことを思い出しました。東京の米国大使館で査証を貰ったと思います。警備が厳しかった成田空港に入り、中華航空の米国行きに乗ったのが人生初めての飛行機で、離陸の時に手に汗を握る感じだった。もう着いたのかと思って外を見ると目がさめるように美しい青い海が見えて飛行機を降りた。ホノルル乗り継ぎ便だったのである。緊張して入国審査を受けたことをその時の情景共に覚えている。良き先輩に誘われてUCLAのラボに2週間ほど滞在した初めての海外旅行だった。


2週間という限られた期間でデータを出さないといけないので彼は土日も実験だった。彼はとても頭の回転が早く手も良く動く。私がこれまで接して来た学生の中でもトップレベル!実験データをエクセルでまとめてパワポファイルで持って来たが、データの計算方法が間違っていたので指摘すると15分後に訂正して持って来た。普通の人だと絶対に30分はかかる作業だ!

彼はインドの南部の出身である。インドでは20以上の異なる言語が話されているが、彼の出身はタミル語の地方である。バンガロールの研究所で多くの院生はヒンディー語を話すが彼はさっぱりわからないと言っていた。ヒンディー語がインドの中部、北部で話されるメジャーな言語である。

2週間の滞在で、4種類の実験手法を伝授、指導して大凡の結果が出てよかったです。彼も有意義な体験だったと感謝してくれました。



インドへのお土産にチョコを買いたいというのでスーパーに案内し、ドイツのチョコがどれかを教えてあげました。ドイツのスパーは特にクリスマスの時期なので、いたるところにチョコ売り場があります。ドイツのチョコは種類が多すぎて選ぶのに困ります。もっともポピュラーなmilkaを推しました。レジで板チョコが大量に並べられ合計7000円ほどでした!友達が多いのだそうです。



 



この1週間でマグデブイルグはとても寒くなり、最高温度は10℃以下、最低は零下で霜が降りています。ドイツの冬を体験するのもいいなと思っています。日照時間も短くなってきました。朝ゲスハウスを出るときにはまだ暗く、帰る時にはすでに真っ暗です。ビタミンD不足にならないように紫外線にあたる必要がありますね。



2018年10月15日月曜日

Universitätsklinikum Magdeburg


研究所はマルデブルグ大学の大学病院(Universitätsklinikum)の敷地内の奥にあります。ここには薬学部、医学部もあり、それ以外の学部は中心部から近い場所にあります。陽気な日曜日のお昼に構内を散歩してみました。森のような茂みが各所にありベンチが所に置かれていた。自然の中にある病院という雰囲気である。




ゆとりの自然の空間はドイツの精神的な余裕と豊かさを象徴しているように感じます。

2018年10月8日月曜日

ドイツで査証ゲット



日本人はドイツに3ヶ月までビザなしで滞在できる。私は5ヶ月滞在するのでビザが必要であった。日本のパスポートは強力でほとんどの国にビザなしで訪れることができるが、私がこれまで旅行した国では、ロシアとインドが例外であった。それぞれたいへん苦労した思い出があり、ドイツではどうなるかと思っていた。実際、書類不足で出直した話も聞いていた。


ドイツに来て2カ月が経過したので、現地の保険に加入してビザを申請することにした。クレジッドカードの海外旅行保険は渡航後3ヶ月まで有効であるが、10月からドイツの保険に加入して書類を入手した。ウェブで査証申請書をゲットして記入し、研究所で発行してもらったゲストサイエンシストの書類とゲストハウスの入居許可書を持って早朝に出かけた。申請書はドイツ語のwebページからのダウンロードだったのでラボのドイツ人に教えてもらった。

交付事務所は朝8時に開くが、新学期なので学生、移民の人も多いから早く行って並んだ方がよいと言われた。40分前に到着すると4番になった、8時10分前には30人ほどが並んでいた。受付を済ませて番号を受け取り待っていると程なく行き先の部屋が掲示された。部屋に入ると、若い女性が担当だった。机のスタンドにはお子さんが書いた絵が張ってあり和やかな雰囲気である。


パスポートのスタンプが多すぎて今回の入国スタンプがなかなか見つからなくても急かされることなく笑ってくれて、研究所発行の書類を見せるとすぐに理解してくれて(研究所名、LINはこの地で信頼があるようだ)、査証発行の手数料金を教えてくれた。振込の機械があることころまで案内してくれ振込後に部屋に戻ると査証をプリンターで印刷してくれ、スタンプを押してパスポートに貼ってくれて完了。何のトラブルもなく快適に終了した。担当になった方がとてもよかったようだ。「ご親切にありがとうございました」と礼を言うと微笑んでくれた。

予想外に簡単に済んだことがうれしくて早朝に開いていたすぐ近くのスーパーでワインを買って帰った。

Saale-Unstrutのワインはライプツィヒとワーマールの間にある旧東ドイツ、エルベ川の支流のザーレ川のワイナリーで作られる。300円のワインはイマイチだが500円出せばとても美味しいことがわかった。ところがその後、300円以下でも美味しいワインに出くわした!

2018年9月25日火曜日

東西ドイツ

 45年の間分断されていた東西ドイツは、統一後28年を経過した今でも、違いがあることに気づかされます。ドイツの西側ではたいてい英語で大丈夫ですが、こちらの少し年配の方はロシア語を学んでいたため英語が通じない人がいます。また西側に比べると経済的に貧しく、格差の解消にはまだ何十年もかかりそうです。驚いたのはサッカーのロシアW杯の時、この地ではまったく盛り上がらなかったという話です。なぜならドイツリーグの主要なチームのほとんどが西側にあるからです。チームを支えるには地元企業のサポートが必要だからです。

 マグデブルグで出会うアラブ系と思われる人の多くは子連れの難民だった人々です。8月末に外国人排斥を主張するネオナチの人々に、一般の人が加わったデモ(暴動)がこの近くの都市ケムニッツでありました。きっかけは、何らかの口論によって一人のドイツ人が中東出身の二人に殺された事件でした。外国人排斥の騒動が旧東ドイツの地域で頻繁に起こることの背景には、歴史的な問題があり深刻です。反EUを掲げる政党の支持者が多いのも東の地域です。今回の騒動は、ドイツの行く末についての不安を掻き立てるものでした。


 しかし、健全だなと思うのは、この事件についてのドイツの新聞の論評記事です。実に長い文章で、現実を歴史的・社会的に考察しています。このように深く考える人々がいることに希望があるように思います。そして人種差別に反対するデモもすぐに各地で行われました。一方、日本では、マスメディアにおいても真摯な議論が少なく、ヘイト的な発言が放任され多くの人が無関心ではないでしょうか。

2018年8月17日金曜日

マグデブルグの日々暮らし

8月からドイツで単身生活を始め、研究所で実験をしている。暮らしているマグデブルグは昔、東独だった。かつては司教座が置かれており歴史的に重要な都市であったが、観光名所もほとんどないのであまり知られていない。しかし、理科の教科書に出てくるマグデブルグの半球による実験が行われた場所としては有名である。
 
ただ、近くに大きな空港がないので不便である。日本からの直行便が着くドイツ国内の空港は、フランクフルト、ミュンヘン、デュセルドルフであるが、どこについてもマグデブルグまでは鉄道で4時間ほどかかる。近い大都市はベルリンだが、首都であるにもかかわらず日本からの直行便は飛んでこない。

到着してしばらくドイツも異常気象で暑い日が続いていた。こちらは家に冷房がないのが普通なので、研究所のゲストハウスもめちゃ暑い。ラボの扇風機を借りて来て何とか凌いでいます。電気屋さんに行っても扇風機は売れ切れだそうです。もうひとつの問題は窓に網戸がない(標準仕様)ので開けられません!蒸し風呂で扇風機の状態です!という日が2日続いたのですが、昨夜は涼しくなりました。ところが、窓を開けても虫がほとんど入ってこないことを発見してからは、窓を開放して寝ていました。なぜ虫が少ないかは不明です。

ドイツの朝は早い。6時前から研究所に人が来始め、8時頃が出勤のピークです。朝の7時半に私がゲストハウスを出る時には、掃除をしてくださる優しいおばさんがすでに働いていて、おはよう!の挨拶をしてくれます。朝が早いかわりに帰りも早いです。午後から帰り始める人がいて、研究者も3時過ぎに帰る場合もあります。5時になるとほとんど誰もいません。

日々気がついたことをメモしてみた。


ドイツ初日のランチ!“Kaltschale” “Fruchtkaltschale”とかいうスープです。


メンザにサラダバーがあって20種類ほどの品から選んで重さで料金が決まります!サラダだけで立派なランチになります!写真で緑に見えるのはフェルドザラート(Feldsalat)です。ただこれは冬野菜のはずですが?グリム童話のラプンツェルンはフェルドザラートのことです。フェルドザラートは大好きでドイツに来たらいつも食べてます。香りはほとんどありませんが、ナッツっぽい風味かもです。ビタミンAとC、カリウム、鉄分、葉酸などが豊富だそうです。


今朝、研究所の駐車場に停まっていた東独時代の軍用車!マニアの人が職員にいるんだ!30年以上前のクラシックカー!「トラバント」「トラビ」といって、特別許可を取得した車がベルリンでも多数走っているらしい!でも燃料メーターがないという!メカが単純で自分で修理するらしい。


研究所のロビーには3種の自動販売機がある。それぞれ、サンドイッチ、お菓子と水や炭酸飲料、コーヒーが買える。大きなカップのコーヒーは100円。Dallmayrがドイツではメジャーです。


洗濯機の仕様は国によって違います。ドイツではお湯を使うのが標準で、ドラム式がほとんどです。衣類の種類によって90度まで温度調節するようです。予備洗いがあって本洗があって1時間ほどかかります。インドでは15分ほどですべてが終わっていました。洗濯機メーカーは輸出しようと思ったらお国事情を調査してからでないと売れないでしょう。

ドイツ人は足が長いので、ぼくにとって学食の椅子の高さと階段の大きな段差がたへんです。研究室の椅子は高さの調節ができるから良いのです。階段は日本の1.5段以上の高さがあります。さらに高いのが自転車です。サドルがハンドルと同じ高さでほぼ胸の下の高さにあります。彼らは足が長いうえに足がつかない位置で漕ぎます。借りて乗るのは絶対に無理だと思います。ママチャリのような自転車はありません。




歩いて20分ほどのスーパーに買い出しに。豚肉ミンチの味付けがありますがサンドにして生で食べます。ドイツではちゃんと管理されていて絶対大丈夫です! これまで買った2種類は黒パンでしたが酸っぱくないです。丸い形のが確実に酸っぱいと思います。ぼくは酸っぱくてもまあ平気です。ハムやチーズ、レバーペースト、ジャムを付けて食べるのが普通だと思います。



Plattpfirsichと言って平たいモモです500 gで1ユーロしないです!丸い桃も並んでいます。海外は果物が安くていい。

ビールはほとんどガラス瓶です。そのボトルもペットボトルもアルミ缶もすべて店に持って行って、回収機械に入れるとリファンドされます。中身の水よりもペットボトルの回収料金が高い場合もあります。ビール瓶よりペットボトルの方が高いです。買い物に行くとき空になった瓶をにこまめに持っていかなければなりません。


街中の大聖堂でのパイプオルガンコンサート行って来ました。荘厳な残響があるドームでした。1363年に建設されたドイツ最古のゴシック様式建築で戦争で破壊されて再建したそうです。


 昨日はダーチャ(Datsche)という場所に行きました。外のオープンスペースや屋根があるスペースに椅子が並んでいて子供が遊べる砂場や小さなプール、卓球台があります。家族連れが子供を遊ばせながらゆっくりできます。バーガーと飲み物を売る売店に買いに行って飲食をしながらゆっくり過ごします。ダーチャという言葉を初めて知りましたが、ダーチャはロシアに始まったもので、都会に住む人が郊外の田舎にセカンドハウスがあって週末や休暇を自然の中で農作業をしながら過ごすというものです。それが東独にも広がってきたようです。わたしがいるマグデブルグは東独に属していました。ドイツ全体ではクラインガルテンと呼ばれているようです。昨日行ったのは、昔ダーチャだった場所を改造してお店にしたようです。緑の中にありました。




2017年5月2日火曜日

マグデブルグの日曜日 めずらしく晴天

研究室のキッチン
枝には蕾があって花が咲くみたい!

研究所は大学病院の敷地内にある。病院の入り口



ようやく春が!
欧州各地にある「躓きの石」4人はここに住んでいた。
お父さんは逮捕されブーヘンヴァルト収容所で殺害された。
残った3人はアウシュビッツに送られて殺害された。
娘のFriedaはその時17歳だった。

地元の黒ビール
ライチョウの絵柄はHasseröder醸造所の以前の名前に由来する

2017年4月30日日曜日

ドイツで演習に参加する


今回の旅の前半の目的は、Leibniz Institute of Neurobiology (LIN)で行なわれる、「Selfとは何か」という演習に参加することでした。参加者は、学部生、院生に加えてポスドクやスタッフもいて12人ほどです。研究所で実験をしている人もいれば、「哲学と自然科学」という境界領域専攻の学生もいます。講師はスペイン在住のイギリス人の翻訳家、著作家のRupert Glasgowで、どこの大学にも属さない謂わばフリーランスの学者です。使用言語は英語ですが、彼は、ドイツ語、フランス語、スペイン語に堪能です。そのような文系の方が、生物のことを幅広く勉強して、最近、このテーマで博士号を取得し、それが2冊の書物になるそうです。博士論文の審査員は、理系の教授と哲学の教授たちでした。彼がいかに型にはまっていないユニークな自由人であるかがわかります。 おそらく、日本ではこのように博士号を取得するのは無理でしょう。

海外で演習形式の授業に受講生の立場で参加するのは初めての経験でした。多数の個別のテーマについて参考論文が事前に送られていて、テーマごとに話し合いが行われます。ウイルスにSelfはあるか?免疫における自己と非自己、利己的な遺伝子、延長された自己とかです。

自由な発想で考えることがポイントだと思いました。全員が発言して、議論が絡み合いながらどんどん進んでゆく。同じ土俵の上で皆が発言している。講師が喋っているのは3分の1ほど。演習に遅れてきても早退してもまったく気後れすることがない。午前は9時から12時まで、メンザで一緒に昼食を食べて、休息してから2時から5時までという4日間のスケジュールである。現役の教官の時に参加するのはとても無理だった。


もしこの演習を日本で行ったらどうかな?といつも考えていた。というか日本では、なぜ同じようにできないのかと考えていた。私は、どのような規模の講義でも、意見、質問を求めるようにしてきました。しかし発言者が多くて困るということはなかった。このテーマだと、そんなことは考えたことがないから意見をだせないという反応が出てくることが予想できます。ところが、こちらの学生は長々と自論を話します。少々論点が違っていても気にしない。日本ではそのよう積極的に発言できる人はいるが、少数である。 
 

2017年4月28日金曜日

Berlin

ペンションがある建物のの入り口
今回のドイツ行きがパリ便になったのはフランクフルト着の便は安いチケットがなかったからである。1日余裕ができたのでベルリンに寄ることにした。JALパリ便の新しい機体は快適だった。オーバーブッキングのためにアップグレードしてもらったプレミアムエコノミーのヘッドフォンはノイズキャンセリングで、窓は電子式の色フィルター、トイレはウオッシュレットとなっていた。機内ではついこの間に観た「この世界の片隅に」を再び。2回観ると見逃していたところも見えてきてよかった。次「LION/ライオン 〜25年目のただいま〜」。5歳の時にインドで迷子になってオーストラリアで養子となった人が大人になって、google earthでインド住んでいた家を探し出すという実話による映画だった。インドの風景が懐かしかった。インドでは年間8万人の子供が孤児になるという。

シャルル・ドゴール空港、入国審査が長蛇の列で40分ほどを要した。これはパリで初めて。ターミナル1に移動して、ルフトハンザのカウンターでチェックインしようとしたら、germanwingだと言われる。確かにe-ticketをよく見るとgermanwingの文字があった!ルフトハンザのサイトで予約したのにフライトはgermanwingで発券はeurowingだった。ANAのサイトでPeachのチケットを買うようなことになっているようだ。食事は出ないだろうと思っていたが、小さなサンドイッチが出た。


Germanwingは2年前に副操縦士の自殺行為で飛行機を墜落させた航空会社なので、それと知っていたら乗らなかったかもしれない。チェクインも時間がかかり、さらに搭乗口が狭くて半数以上の人が立っているというのも格安航空だからということか。乗り継ぎの時間の余裕をとっておいてよかった。  

朝食!パンがたくさん!ハム、チーズのお皿の真ん中には食用ホウズキ
ヨーグルト、果物、シリアル
夜10時過ぎ。ベルリンのテゲール空港から乗ったタクシーの運転手がとても親切な方で、ずっと世間話をしていて(奥さんはポーランド人で子供は3人とかいろいろ,,,、着いたら荷物を持って宿泊するペンションに入るのを手伝ってくれた。建物の呼び鈴を押してドアのロックを外してもらってエレベータで3階に行ってという手順だった。一人だったら少し迷ったにちがいない。 

宿泊したのはホテルではなくペンションで古い建物だった。おじさんが出てきて、3本の鍵の使い方などを丁寧に説明してくれた。バスルームは共用だったが綺麗で問題なかった。時差ぼけで断片的な睡眠だった。朝食の部屋は古風でとても雰囲気がよい。食事の準備をしてくれるおばさんはとてもやさしい。15部屋ほどがあるようだ

ホロコーストを現したオブジェ

朝から雨。Google mapを頼りに地下鉄で移動し10時にユダヤ博物館に入る。ダニエル・リベスキンドという「建築しない建築家」の設計案が初めて採用されたという建物でとても斬新で理論的だった。日本語の音声がガイドを借りて回る。音声ガイドの項目が100以上あって、和訳もよくて詳細な説明が聴ける。




ヨーロッパでのユダヤ人の長い歴史を学ぶ。ユダヤ人に対する迫害は十字軍の時代から、ペストの時もあったこと、複雑な宗教、社会政治事情を詳しく学ぶことができた。多くの人たちが来ていて、学校の生徒たちも集団で説明を聴いている姿が印象的だった。歴史を学ぶことができる博物館である。このような博物館を建てるドイツはすごい。10時に入ったが出てきたのは2時過ぎだった。ペンションの近くにもどって、白ビールで一息入れて、一仕事をする。論文の査読をしなければならなかった。 

後部にはパイプオルガン 演奏もあった



 

夕方にペンションに戻り、周囲を散策しKaiser-Wilhelm記念教会でのコンサートに行った。隣の古い教会は戦争の時に破壊されたままで残っている。新しい教会は、全面が小さなステンドグラスの窓になっていて、正面に金色の大きなイエス像が掛かっている現代的で美しい教会だった。ベルリンフィルのメンバーによる演奏で、観光客向けのプログラムだったが美しいバイオリンの演奏と独唱だった。



コンサートの後で夕食の場所を探し、とてもよいドイツ料理の店を見つけて、ビールとアイスバインで夕食にした。メインの通りから入った場所という選択がよかった。

2013年5月22日水曜日

LeeuwenhoekとVermeer 2013-5

ドイツから帰国する日はケルンからフランクフルトへ移動しなければいけなかったが、フランクフルト空港での待ち時間に余裕があった。ネットでフランクフルトの情報を調べていたらシュテーデル美術館にフェルメールの「地理学者」があることがわかり行くことにした。

フランクフルトからボンに来たときはライン川沿いを2時間ほどかけて車窓を楽しんだが、ドイツ新幹線ICEだと別のルートを走り1時間もかからなかった。これまで何度も来たなつかしいフランクフルト空港駅に着いて、帰国便のターミナル2で荷物を預け、Sバーンでフランクフルト中央駅に行く。ところが、Sバーンの乗り場がわからず少し時間を無駄にした。ターミナル1に移動しなくてはいけなかった。次に、電車、バスが乗り放題で美術館の料金が半額になるwelcome cardの売り場がインフォメーションの窓口だけで、そこを見つけるにも時間を要してしまった。

シュテーデル美術館はマイン川岸にあり駅から歩いても行ける距離だった。こじんまりとした美術館だが、粒よりの作品の額がどちらかといえば無造作に並べてある。 このような絵画が日本に来ると、近づけないように柵が設けられ入場者が溢れるであろうが、ここでは人はまばらで何の柵もなく、写真撮影もOKである。ゆったりと独り占めして観ることができた。







 フェルメールの「地理学者」もただ並べているだけで特別扱いはされていない。昔、ルーブルでフェルメールの「天文学者」を観たが両者は同じ構図である。窓からの光に浮かび上がる地図を前にしてコンパ スを持った地理学者が目を凝らしている。彼が着ているのは日本の羽織である。棚の上の地球儀は誰が作ったのかもわかっている。私がこの絵画を観たかった理由は、このモデルの男性は顕微鏡観察で有名なレーウェンフックだという話を読んだことがあったからだった。レーウェンフックとフェルメールは共にオランダのデルフトの生まれで知り合いであったのである。

美術館を歩いていると驚きの発見があった。この絵画である。ケルンで滞在したホテルは新しいデザイナーズホテルだったが、部屋の机の横の支柱に掲げられていたのがこの絵画の複製だったからである。彼女に見つめられて数日間寝ていて、いったい誰の絵だろうか不思議に思っていたが、謎がとけた。イタリアの画家Pontormoの1540年頃の作品だった。





2013年5月18日土曜日

過去を心に刻むこと

4月27日、ベルリンで時間があったので「ホロコースト記念碑」(正式名:虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑)とその地下にある記念館に行ってきました。以前から行ってみたいと思っていたところです。記念碑は構想から17年を要し2005年に完成したものです。除幕式の式典で連邦議会議長が「記念碑は犠牲者の追悼に終止符を打つものではなく、現在そして将来も追悼の義務があることを示すものであり、現在および後世が過去の事実に向き合うことを可能にする場である」と述べたという



記念碑は、ブランデンブルグ門から歩いて5分ほどのベルリンの中心部にある。大きさが異なるコンクリートの柱が、規則正しく樹立していて、柱の間の狭い通路を歩くことで人々は何かを感じる。まさに異様な空間で、閉じ込められる、挟まれるという静かな恐怖を私は感じました。地下の情報センターには、ヨーロッパ各地から数多くの場所につくられた強制収容所に送られた家族らの資料があった。ここはユダヤ人に限定されているが、シンティ、ロマの人々も同じ目にあったのである。ドイツ大統領が述べた言葉が公園の記念碑に大きく掲示されていた。



ドイツの街を歩いていると金色の真鍮プレートが埋め込まれているのを目にすることがある。それは、ここにあった家の住んでいたユダヤ人の誰がいつどこの収容所に連れて行かれて殺されたかを記銘したプレートである。これは「つまずきの石(Stolperstein)」 というもので、 ドイツ人芸術家Gunter Demningが1995年に始めたプロジェクトで今では4万個のプレートが、ドイツだけでなく、オーストリア、ハンガリー、オランダ、ベルギー、チェコにも埋められているという。このようにドイツでは過去を心に刻むことが目に見える形で行われている。



帰国してからこの記銘を読んでいたら3名は家族であることに気がついた。父親は1938年に逮捕されてブーヘンヴァルト強制収容所からザクセンハウゼン強制収容所に移され、1942年にそこで亡くなっている。1938年は水晶の夜事件の年であるが、その年に多くのユダヤ人が逮捕されてブーヘンヴァルト強制収容所に送られたという。母と息子は4年後の1942年にワルシャワのゲットーに隔離収容され、Treblinka収容所で亡くなった。収容所で殺されたとき、父は53歳、母は49歳、息子は20歳であったことがわかる。この家族はここに住んでいたのである。 


 
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」
Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliesst, wird blind fur die Gegenwart.

             ヴァイツゼッカー独大統領「「荒野の40年」1985

2011年2月16日水曜日

自動改札機がないドイツ

東京でも福岡でも複数の交通機関で1枚のICカードが使えるようになり切符を買う手間がなくなり便利になった。しかし、しっかりと料金を支払わされている。東京から帰りの飛行機の中で、ふとドイツのことを思いおこして書いてみた。

ドイツの切符のシステムは基本から日本と異なっている。 まず、駅に改札がない。ないというのは正しくはなく、プラットホーム、バスの車内にある機械に切符を挿入して自分で刻印しなければならない。1回乗車券のほかに回数券のようなものがあり、ゾーンに応じてポイントを数えてそこに刻印する。

改札ゲートがないので自転車の持ち込みも楽である

普通の一枚切符は刻印して1時間は有効なので、何度も乗れるというシステムは便利である。すばらしいと思うのは複数人数用の切符で、同じ行程をゆく場合は1枚の切符を買えばよい。友人や家族での移動によい。 1回乗車券は日本と比べると高いが、割引料金の種類が多い分得した気分になれることが多い。

日本で自動改札機が目の前でバタンと閉まったことがある。カードの読み取りが上手くいかなかったのである。早い速度で通過しようとしていたのでかなりの衝撃があった。それ以来、改札機を通ることが少しトラウマになった。自動改札機がないドイツに来るとほっとする感じである。

ドイツでは正しい切符を買って乗車することが自己責任とされている。もちろん無賃乗車をすることも可能であるが、時々ある検札で見つかれば、いかなる理由を述べたとしても、たとえ観光客であっても、高い罰金を支払わなければならない。検札する人は私服で、挟み撃ちにして始めるので逃げることはできない。私はロシアのバスでそう言う目にあったことがある。切符を持っていても刻印を忘れていたら言い訳はできない。だれも刻印していないから大丈夫と思ってはだめだ。現地の人はパスを持っているので何もしないのである。

ミュンヘンの空港から鉄道に乗る時におもしろいことがあった。ホームの自販機の前でドイツ語の解読をしていると、空港駅についたばかりの人が切符を見せてこれを半額で買わないかという。それは1日券で、あるゾーン内の乗り放題の切符だった。最初は何かあやしいのではないかと疑ったが、かしこいやり方と気がついて買った。売った人も買ったわたしも半額で済んだわけである。もちろん、正規の片道切符より安い。1日券は一人の人が使わなければならないという規則がないことを確認してはいないが、賢いドイツ的?節約法ではないだろうか。

長距離の移動はドイツ新幹線ICE(Intercity-Express)である。(長距離の鉄道駅では欧州のどこの国でも改札ゲートがない。ユーロスターはあったが。)日本でインターネットで予約購入し送られてくるPDFファイルをプリントアウトして持参して乗車すればよい。いわゆる早割は日本の新幹線の料金と比べると驚くほど安い。少しわかりにくいのは座席の指定である。座席の上に掲示に区間が表示されている場合は指定した人が来ることがわかるので、その区間以外、あるいは指定がない席に座ることができる。

さて、ドイツの古都 Würzburg バスの車内のアナウンスは小学生の子供の声だった。「次の停車は○○です。」停車ごとにちがう子供の声で終点は全員が言う。とてもかわいくて和みます。