2017年5月31日水曜日

ブルノ 聖地巡礼

5月11日 理学部の物理、数学、化学の学問分野では「法則」がたくさんある。しかし、同じ理学部に属しながら、生物学で法則と名がつくもので一般に良く知られているのは「メンデルの法則」だけである。メンデルはブルノの修道院長でありながら、庭でエンドウマメの交配実験を行い、遺伝法則を発見し論文を書いた。その理論の前提となる知識が全くわかっていない時代に、メンデルは独自に法則を見出して論文を発表した。しかし彼の存命中にその発見の意味を理解できる者はいなかった。ブルノは決して学問の中心地ではなく、メンデルは生物学者でもなかった。しかし、数十年後に再発見されたメンデルの法則はその後の遺伝学発展の基礎となった。

遺伝学の講義をしていた時はメンデルの生い立ちとブルノの修道院の話から入る。だれがどのような時代になぜその研究を行ったかを話してきました。そこがとても面白いからです。チェコのブルノに行くことは当初の計画にはなかった。しかしこれまで遺伝学を講義してきた者としては、ブルノは是非とも一生のうちに訪ねたい聖地だった。地図を見ると、ブルノはプラハとウィーンの間にあってウィーンから1時間半ほどであるので出かけることにしていた。

ウィーン駅で朝食を買って列車に乗り込んだが、最初の駅で乗り換えが必要なことを確認し忘れていたという大失敗!駅員の人はこれでブルノに行くといい、列車はポーランドのものでインターネットが使えなかったので確認できなかった。その結果、乗り換えるべき駅を過ぎてからの検札で次の駅で別の列車に乗るように言われた。もし検札の人に言われていなかったなら、さらにどんどんブルノから離れて、最後はポーランドへ行くところだった。結局、2倍の時間をかけてお昼にようやくブルノに到着した。

 ブルノにはメンデル博物館がある。駅からトラムに乗って一つ行き過ぎて戻って、見つけたメンデル像の横で写真を撮り、博物館をゆっくり見た後にメンデルカフェで一息入れた。博物館の展示は、メンデルの法則をCGでわかりやすく解説したものと、メンデルが使った顕微鏡や杖、説教の草稿などの展示があった。博物館には人がほとんどいなかったがカフェは繁盛していた。その後、近くのStarobrno醸造所付属のレストランでビールを飲んで昼食をとった。ようやく日差しが強くなってきて人々は陽が当たるベランダ席で食事をしている。赤ちゃん連れのお母さんも食事に来ていた。ビールが美味しくまた2杯飲んでしまう。駅でコルナを使い切る買い物をして直通でウィーンに戻った。



メンデルの説教草稿
巡礼を終えてメンデルカフェでアペロール スピリッツとチョコケーキ(上に乗っているのは食用ホオズキ)
ブルノのビール Starobrno 1234年創業 ブルノで売っているビールはStarobrnoがほとんど 



2017年5月30日火曜日

古都プラハ


5月7日 チェコはこれまでずっと行きたいと思っていた国だ。音楽では、スメタナ、ドボルザーク、文学ではカフカの地であり、ヨーロッパの古い町並みが残っている街であるから。また、私が高校生の頃にあった政変「プラハの春」の思い出もある。チェコがソ連の共産党支配から脱して、非暴力で社会変革を行ったのである。

ドイツ鉄道のバスでプラハ中央駅に着き、換金してから駅の正面に出てトラム・地下鉄の3日券を購入した。チェコの通貨はコルナである。普通の乗車券だとスーツケースの持ち込みに追加料金が要るが3日券だと不要である。ホテルに行くためにトラムの乗り場を見つけて乗ったが、途中で路線番号が変わってしまい、急いで下車して2回乗り継いでホテルに到着。おかげでトラムの乗り方を少し学習した。

Hotel U Krizeは16世紀の建物を改装したホテルで4階の屋根裏部屋だった。このホテルは朝食込みで、温かい卵料理を3種類から注文できるのがユニークだった。また1階に2つのレストランがあって宿泊者は1割引きだった。その一つの店のチェコ料理がとても美味しくて2回も行った。

部屋は最上階で窓側の天井が斜めになっている。トラムの駅の近くでどこに出かけるにも便利だった。ホテルの前は公園で山がある。
 



プラハの町並みや雰囲気は3回行ったことがあるポーランドと似ていると感じた。両国は隣同士だし、同じ西スラブ語に属する言葉を使っている。ポーランド語とチェコ語は70%ほど似ているという。英語のアルファベットの上に多様なヒゲが頻繁についている。駅の名前などをチェコ語のアルファベットを音読して確認することが辛うじてできる状態だったが、どうしても読めない駅名もあった。街では英語がほとんど通じた。

プラハに来た人が必ず出かけるのはプラハ城とカレル橋である。プラハ城はこれまで訪れたどの城よりも巨大だった。そして1402年に完成したというカレル橋はいつも観光客であふれていた。プラハでの音楽イベントは、プラハ国立オペラ座でのドヴォルザーク作曲オペラ「ルサルカ」の観劇だった。オペラは人間になった水の精と王子様の話でとてもわかりやすいストーリーだった。日本での海外から来たオペラの公演は数万円の値段がするが、チェコでは5千円ほどだった。長い休憩を挟んで公演が終わったときは10時を過ぎていた。地下鉄とトラムを乗り継いてホテルに戻ったが夜の街も怖くなかった。


スメタナ、ドボルザークの博物館にも行くことができた。それぞれ少しわかりにくい場所にあって展示品は少なかったが、ゆっくりとした時間を過ごすことができた。どこに出かけるにも目的の場所を探し出すのに手間取った。ひとつには、iPadのGoogle mapに地図をダウンロードしているのだが、現在地の表示の正確性がないので目的の場所にたどり着けない。良い人に当たって的確に教えてもらって見つけたことが多かった。また、道が格子状でないのでたいへんだ。やっと店にい入ることができても、日本のようにはいかない。こちらの人はメニュウを前に時間をかけて考えていてなかなか決めないのだ。決めても担当者が来るまで待たなければならない。さらに食べ終わってから支払いまでも時間がかかるのである。



琥珀色で泡が多い このジョッキも気に入った
チェコのビールはとにかく美味しい。何杯でも飲めてしまう。0.5リットルで200円という安さも魅力である。ビールを飲むためにまたチェコに行きたいと思ったほどです。チェコ料理も何回か食べたが、独特なソースが特徴で、クネードリキという小麦粉のダンプリングがいつもついていた。


プラハ最後の日、駅までトラムに乗って行き、チェコ鉄道のオーストリア行きの1等車に乗車した。直前にならないと出発ホームが案内されないのでしばらく待った。車内ではレストランのメニューが配られ、正面のスコットランドのスターリングから来た夫妻はパンケーキとコーヒーを注文していた。私たちは、ホテルで作ってきたサンドウィッチで昼ごはんにした。昔だと国境でパスポートチェックがあったが、今はどこでチェコからオーストリアに入ったのかもわからない。 


2017年5月21日日曜日

マーラーとバッハと


アイゼナハ カールス広場のルター像

5月4日 マグデブルグでの演習参加を終えて、定年退官を記念した音楽旅行に出かけた。フランクフルトに移動して、成田から夕方に到着するMを出迎えて合流し、鉄道で夜遅くにアイゼナハのホテルに着いた。

アイゼナハに1泊したのは、ここがバッハの生誕地であり、ルターが聖書のドイツ語訳を行ったヴァルトブルク城があるから。今年は宗教改革500年で、そのことを覚えてドイツ各地で様々な行事が行われていた。ヴァルトブルク城、バッハ博物館などを観て、ライプツィヒに移動した。アパートメントホテルに着き、すぐにゲヴァントハウスホールに向かった。


ヴァルトブルク城

マーラーの交響曲に心酔していた青春時代があった。その頃の私が音楽を聴くのはラジオしかなかった。始まったばかりのNHKのFM放送はクラシックのレコードばかりを流していた。その中からマーラーの曲をモノラルでオープンリールのテープに録音して聴いていた。交響曲第4番をフリッツ・ライナー指揮のシカゴ交響楽団で聴いたのがマーラーの衝撃的な出会いだった(しかし、これはNHKの第2放送だった)。その不思議な音の響と流れが心に共鳴した。交響曲第5番は、ヴァーツラフ・ノイマンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮した演奏を録音して聴いていた。 高校時代にマーラーの交響曲のほとんどを聴いた。

それから45年以上の年を経て、ライプツィヒの地でゲヴァントハウス管弦楽団のマーラー交響曲第5番を聴くことができた。ホール横の2階席からは演奏者達がすべて見渡せて、打楽器、管楽器のそれぞれの演奏者の様子が見て取れた。

青春時代、マーラーのつぎに出会ったのがバッハだった。翌土曜日は、バッハの墓がある聖トーマス教会での演奏会に行くことができた。聖トーマス教会合唱団とゲヴァントハウス管弦楽団メンバーによるハインリヒ・シュッツの合唱曲、Ich bin ein rechter Weinstock、バッハのモテット、Singet dem Herrn ein neues Liedなどの演奏だった。この2日の音楽経験は完璧な組み合わせで、これまでの私の人生の歩みが慰められたような感動があり、後は何も加える必要がなかった。

2泊したライプツィヒからプラハまではドイツ鉄道の2階立バスで移動した。バスは3時間ほどプラハ中央駅に
ノンストップ到着した。

この後に行ったウィーン・コンツェルトハウス エントランスのマーラーの銘板

2017年5月2日火曜日

マグデブルグの日曜日 めずらしく晴天

研究室のキッチン
枝には蕾があって花が咲くみたい!

研究所は大学病院の敷地内にある。病院の入り口



ようやく春が!
欧州各地にある「躓きの石」4人はここに住んでいた。
お父さんは逮捕されブーヘンヴァルト収容所で殺害された。
残った3人はアウシュビッツに送られて殺害された。
娘のFriedaはその時17歳だった。

地元の黒ビール
ライチョウの絵柄はHasseröder醸造所の以前の名前に由来する