2015年9月30日水曜日

岐阜にて



出張で出かけた街で好きな画家の展覧会が開催されていることを知り、行くことができたことがこれまでに一度あった。確か北海道でのユトリロ展(1996)だった。


岐阜での学会2日目、JR岐阜駅でランチをした後に歩いていて「レオナール・フジタからの贈り物 小さな藤田嗣治展」のチラシを手にし行きたいと思った。午後は受賞者講演だったので途中でラボの院生2人と抜け出してバスに乗って県美術館へ向かった。今回の展示は、これまで未公開だった小さなサイズの原画展で、手製の額に納められた絵は宝石のようだった。子どもの絵や女性のデッサンも展示されていて、平日の午後で人も少なく心洗われる時間を過ごすことができたことは、今回の岐阜での一番の収穫であった。

日本でフジタの展覧会が開かれるようになったのはフジタの死後である。藤田嗣治が日本で戦争画を描いたのは52歳から7年間。その当時、画家は戦争画を描くことを強要されていた。すべてのことが「天皇の赤子として」「お国のために」の時代にあっては、異議を挟むことは捕われることも覚悟しなければならなかった。現在の北朝鮮と同じ状況である。藤田嗣治の親族は軍医など軍の関係者が多く、彼は戦争画を描くことに抵抗がなかっただろう。しかし戦後、藤田嗣治は画壇の筆頭者として戦争協力の責任を批判されることになる。彼はフランスに戻り仏国籍を得てレオナール・フジタとなり、日本に戻ることはなかった。

藤田嗣治の描いた戦争画を今、観ると、そこには戦争の悲惨さと恐怖しか描かれていない。しかし、戦時中はその感情でさえ、悲惨な死を「玉砕」として賛美するために利用されていたのだ。昔からフジタの 絵画をよく観ているが、フランスに渡った日本人中では最も評価が高く独自の画風をもつ画家である。人間はどのような人であれ負の陰の側面を持っている。
野見山暁治が記したレオナール・フジタという人間の一側面の読むと、彼は滑稽ですらある。しかし、絵画であれ、音楽であれ、生み出された芸術作品は、作者個人の有り様からは解き放されているのではないだろうか。「小さな藤田嗣治展」を観て改めてそう思った。