2013年6月3日月曜日

インド旅行記 2013-3

最近、アジアの国に行く機会が与えられるようになった。韓国、台湾の次はインドである。インドに行くには査証が必要だ。2年前のロシア行きの時には出発前日に査証付きのポスポートを入手し、多額の費用も要したことが思い出され気が重かったが、インドのビザは郵送で出発の2週間前には取得できたのでホッとして出かけた。 福岡出国だったのもホッとできた理由だった。

フライトを調べるとインドは意外と遠い。以前も一度行こうとして断念したことがあったのだ。日本からムンバイへの直行便は成田からしかなかったので、福岡発のシンガポール航空でシンガポールで乗り継いで行くことにした。飛行時間は計12時間で欧州に行くのと変わらないが、5-6時間ほどのフライトに分かれるのでいいかもしれないと思った。

福岡からシンガポールへのフライトの隣の席は空席でゆったりできた。シンガポール航空の機内サービスは余裕を持ってサーブしてくれるところが良い。シ ンガポール・シャンギ空港は噂に聞いていた通り巨大な24時間のハブ空港だった。ターミナルを移動し2時間待ちである。インターネット接続が無料でできる のはよい。空港で目にする人々の人種は多様でおもしろい。人種の比率がユニークである。シンガポールで1時間時計を遅らせ、さらに2時間半遅らせる。1日 が3時間半伸びることになる。なんとかしのげる感じの時差である。 乗り継いだムンバイへの機内はインドの人がほとんどだった。

インドへの入国は何の問題もなかった。ただ、ターンテーブルで荷物を受け取ってから、さらにX線検査機を通らなければならなくそれが長蛇の列だった。ようやく通過して、両替をして外に出ると私の名前を書いたプラカードを持ったドライバーが待っていた。彼と外に出ると何番で待っていろと指示された。 車は遠くに駐めてあるようでしばらく待ってバンに乗り込んだ。

さて、宿泊は研究所のゲストハウスだったが、そこまでのドライブがエキサイ ティングだった。道路は3車線ほどだが5列ほどの車がクラクションを鳴らし続けながら隙間を縫って走っている。時々バイクも高速で走っているが、なんと家 族5人がノーヘルとか。信号はあるが無視する車が多い。夜の10時ころだったが歩いている人が多い。なかには狭い中央分離帯を歩いている人もい る。ムンバイはそんな無秩序な交通事情だった。

朝の風景
タタ基礎研究所(Tata Institute for Fundamental Research)は海辺に近い一角にあった。タタというのは人の名前で、彼が大財閥をつくり、あらゆる企業活動とともに慈善事業も行っている。基礎研究のための研究所もつくったのである。タタ・モーター ズは車をつくっている。研究所の入り口にはガードマンがいて警備が厳重で、研究所に勤める人の宿舎もその囲いの中にあった。

ゲストハウスの部屋は、シンプルでかなり古く快適とは言えないが慣れれば問題なかった。天井に大きなファンが回っている。エアコンはほとんど機能していないが、暑い割に湿度は高くなくて過ごしやすかった。

朝はアザーンの放送とギャーギャー啼くカラスみたいな鳥の声で目が覚めた。シャワーのお湯の出し方がわからなかったが、水も温く問題はなかった。食堂へ行ったが朝食の準備はまだだった。初対面の何人かと話をしながら待っているとやっとカレースープのようなものを含めて食物が出てきた。面白いのは一人でもできそうなのに準備をする男性が5名ほどもいたこと。

今回の集まりは、2010年に亡くなったVeronica Rodriguesのメモリアルシンポジウムだった。ただ、海外からの招待者でVeronicaを知っている人は多くはなかった。Veronicaとわたしは同じ頃にショウジョウバエの味覚の仕事を始めた。わたしが昔、岡崎の基礎生物学研究所にいた時に来日し1ヶ月ほど滞在した。彼女がケニアの生まれで、インド国籍を取得したのは随分と後のことであることをわたしが知ったのは最近になってからである。

今回の集まりで日本人は私一人で完全にアウェーだった。学会の初日が終わってから、皆で町に出てカフェ・モンデガーというパブでビールをジョッキで3杯は飲んで フィッシュ&チップスなどを食べた。フィッシュ&チェップスのことをcolonial menuっていってた。町の中は人が溢れていて少しカオス的ですが、バーの人は親切にサーブしてくれていました。 店を出ると男の子がついてきて、タクシーに乗っても窓の外からもずっとお金をくれと私をツンツしていた。なぜ私を標的にしただろう。インドの人からは無視しろと言われた。

わたしの発表は2日目だった。発表の準備が終わったのは直前だったが、何とか落ち着いて話すことができた。参加者は女性が多く活発に質問が出るのである。女性が元気なのは意外だった。



シンポジウムの最後のプログラムはHorszowski Trioに よるクラシックのコンサートだった。彼らは前日のBanquetにも来ていたので話す機会があった。RamanとJesseはアメリカ生まれで高校の同級生、3人共にJuilliardで学んでいる。彼らもインドは初めてだった。



Leopord Cafe 欧米の人たちがほとんど

歩道の理髪店
学会が終わった翌日の日曜日はフリーだったので、ドイツ人と二人でムンバイの中心部に行ってきた。観光名所の海沿いのインド門の周囲を歩いて町中をしばらく歩きました。強烈な悪臭が満ちた通りには物乞いの人がところどころにいて物売りを振り切りながら、交差点では赤信号でも突っ込んでくる車に注意しながら歩く必要があった。美術館を見てからLeopord Cafeでランチをした。1871年に出来たカフェで外国人が多く2008年のテロで攻撃されたことなので入るにも持ち物のチェックがある。ドイツの彼はアメリカでポスドクをしてからバンガローで5年のポストを得てインドに来ている。いろいろと個人的なことも話して親しくなった。

ムンバイの人口の半数ほどの人はスラム暮らしだそうです。スラム街はタクシーから見ただけですがすごい存在感でした。インドで貧富の格差の現実を初めて目にしたと思います。スラムの匂いを感じて実際に見てみないとわからない。市内のいたるところにスラム街があった。


車窓から見たスラム街

朝7時半に車がくるはずなのに来たのは8時過ぎだった。焦って電話をしたらあと10分で来るからと言われた。途中、市内のホテルでもう一人のせるということ で30分ほど待ってから空港に出発。朝の道は、車とバイクと自転車と人と荷車が混在しているような有様だった。制服を着て登校する子ども達の姿があった。 高速に入ると車道は4車線が実際は6車線になっていてお互いの距離は50センチほどで隙間を縫って走って行く。ホンダ、スズキ、トヨタが日本車で多く、 時々ドイツ車が走っている。タクシーは小型だが、小型三輪車も多い。途中で渋滞もあって心配したが出発時刻の1.5時間前に空港に到着した。チェックイン から出国、搭乗口までは極めてスムーズだった。何回もセキュリティーチュックがあったが。シンガポール航空は搭乗が30分前から始まる。機内は恐ろしく寒かった。前のおじさんは変色した古書を読んでいて、横の女性は手の甲までタトゥーをしているのは珍しい光景。帰路もスムーズだった。シャンギ空港での長い乗り継ぎ時間も、歩いたり休んだり食べたりして有意義に過ごすことができた。

念願のインドに来ることができ、また多くの人と知り合いになることができてよかった。ここでVeronicaと再会したかった。

インドにまた行きたいか?と尋ねられれば、わたしの答えはイエスである。なぜなら、この国のことをもっと知りたいと思ったから。今回は空港から宿舎まで研究所が手配してくれた車で行き来し、ガードマンがいる外国人が行く店にしか行っていないのでトラブルもなかった。しかし、まだインドの一面しか見ていない。 ひとりで来るには勇気がいるだろう。だれか一緒に行きませんか。


2013.7.30
Obaid Siddiqiが交通事故で亡くなったという知らせが入ってきた。Obaid SiddiqiはVeronica Rodriguesのボスで、二人がショウジョウバエの味覚と嗅覚の研究を私たちと同じ頃に始め、ライバルであった。昔、Obaid Siddiqi が仙台に訪ねてきたことがあった。デパートで一緒に買い物をした時のことを覚えている。そして、今年の3月に何十年振りでようやくインドで再会できたのである。会場でお互いの目が合ったときに彼だとすぐにわかった。ほとんどの講演に対して明晰な頭でそして大きな声で質問していた。彼がTATA研究所でのショウジョウバエの研究の創始者だった。彼がこの世を旅立つ前に会うことが叶ったのが幸運であったとしかいいようがない。