2017年11月13日月曜日

本を読む

 定年後に気がついたひとつのことは、あたり前のことではあるが、本を自由に読めることである。教員時代にも読んではいたが、他にやるべきことが頭にあると、どっぶりと本に浸ることはできなかった。そして読みたい本も先送りしていた。例外は海外出張の時だった。出張の度に本を買っておいて新しい本と出会うことが楽しみだった。そして定年後、学生時代にそうであったような本の読み方ができることを思い出した。「ずっと読んでいていいんだ」という感覚はしばらくなかった。

 まず読んだのは蜷川 謙著『パリに死す 評伝・椎名其二』。特異な人生をパリで過ごした椎名其二の伝記である。椎名のこと知ったのは、森有正と画家の野見山耕治の本を読んでからである。野見山耕治が書いた『四百字のデッサン』には、椎名其二と森有正のことが書かれている。パリの椎名の家には当時パリに留学していた多くの人が出入りしていた。本の装丁作業所・住まいがあったマピヨン通の場所を見に行ったことがある。そこは今ではレストランになっている。今回、椎名の伝記を読んで、彼がソローやロマン・ローランの思想に惹かれていたことを知った。さらに、椎名其二は大杉栄とファーブルの昆虫記の翻訳をしていることもわかった。彼はアナーキストだった。

 家の本を整理していたときに、学生時代に読んだ加藤周一の自伝「羊の歌」を見つけて数日で読み終わった。書かれていたいくつかのエピソードを覚えていて懐かしく思った。そこに、森有正が寮で過ごしていた話や、駒場で片山敏彦の講義を聴講した話がでてきて、椎名と話が繋がった。片山敏彦はロマン・ローランと親交があった。本棚の奥から片山敏彦の著作集が出てきて驚いた。

 神谷美恵子の伝記も読んだ。学生時代に読んだ「生きがいについて」に始まってほとんどの著作を読んできたが、神谷美恵子の優れた知性と謙虚さと献身の心には圧倒される想いしかない。

 『トリエステの坂道』(みすず書房1995)が出て六本松の生協で購入した時は、須賀敦子の名前も知らなかった。本の表紙のカラヴァッジョ絵に惹かれて購入した。私は昔からみすず書房のファンでこの出版社の書籍というだけで信頼している。研究室の部屋に戻って読み始めたらとまらなかった。一気に読んでしまった。その後、須賀敦子が書いたものはすべて読んだが、もう一度読み返したいと思っている。

 これらの人々は上流階級の家系に連なっていおり、父、あるいは祖父が洋行していたとか、家に膨大な書籍があるとか恵まれた知的で刺激的な環境があった。読んだ本をつなげてみると、西洋の哲学と文学と格闘し、普遍的な人間の価値を追い求めた人々の軌跡が見えてくる。そこに現代に生きる私たちが受け継ぐことができる遺産があるようと思う。この人々は、日本と西洋という間にあって人間とは何かを問い続けたのだと思う。

椎名 其二 1887-1962
森 有正  1911 – 1976
神谷 美恵子1914 - 1979
加藤 周一 1919 – 2008
須賀 敦子 1929- 1998

 このような読書遍歴をみると、私は文系の人だと思う。しかし今、振り返って、生物学の研究者として生きたことはよかったと思う。もし、私が文系に進んでいたらどんな人生を送っていたかはまったく想像できない。

2017年6月2日金曜日

パリ郊外にて

朝起きたら窓辺にChablisが来ていた
5月12日 最後の訪問地はパリ。だが観光は予定していなかった。MPさんの実家に泊めてもらって、パリ郊外の雰囲気と日常の生活を体験することが目的だった。それにパリのホテルの価格は高騰しているので街中のホテルに泊まるのは躊躇していた。

MPさんの実家はパリの高速郊外鉄道RER A線の終点近くで、広い土地に古い一軒家が立ち並ぶ住宅地にある。セーヌ川の上流で、昔ルノアール、セザンヌなどが描いた景色がそのままある。実家から歩いて10分もすればそんな風景の川沿いの道に出る。そこをジョキングしたり散歩しているのは近所に住んでいる人である。

金曜日の夜遅くに着いて、ナタリーが準備してくれていた魚の料理の夕食を頂く。翌土曜日の朝はマルシェで買い物をして、セーヌ川沿いのレストランで優雅な昼食をいただいた。贅沢な時間だった。午後遅く私たち二人は、A線の終点のサンジェルマン・アン・レー Saint-Germain‐en-Layeに出かけた。音楽旅行の最後としてドビッシーの生家に行くためである。お城の向こうからパリ市内を眺めてから、街通りを散策した。

夕食はナタリーが準備してくれていて、JBも帰ってきて一緒に頂いて夜遅くまでいろんな話ができた。JBの仕事のこととか、日本での生活とかいろいろと話が聞けた。日本で食べたもので一番美味しかったのを尋ねたら、ナタリーは牡蠣小屋の牡蠣、JBは長崎で食べたおしるこだった。JBはMPの教育で和食が好きになったと言っていた。

ぼくたちフランス語の本読めます




日曜日の朝はゆっくり支度をして、ナタリーが作ってくれたキッシュでランチ。空港に向かった。チェックインで時間を要し、搭乗口に行くとしばらくしてアナウンスがあって機内に入った。長かった欧州音楽旅行の終わりだった。いろいろトラブルもあったけど、助け合って乗り越えることで良い思い出になって、楽しく充実した日々を過ごすことができ、欧州のいろんな歴史上の問題も考えることができた。

ウィーンでの芸術鑑賞

5月10日 初オーストリア。プラハから着いたウィーン中央駅は新しく洗練された感じだった。ホテルは地下鉄で一駅ですぐに見つかった。部屋はグレードアップしてくれたようで、キッチン付きのリビングとベッドルームが別にあった。初日は有名な音楽ホールを外から見学した。教会でコンサートチケットが売っていたので購入。コンサートの時間まで散策して戻ろうとしたら道に迷う。いろんな人に尋ねてコンサート開始直前に入場。

2日目は朝からブルノに出かけた。夕方に戻ってから美術史美術館へ。建物の豪華さにも圧倒される。圧倒的なコレクション。ブリューゲルの作品が12点もある。ハプスブルク家が収集したのが中心だ。幸いその日は夜8時まで開館していた。


フェルメールをまた1作、見ることができた 「絵画芸術」


ブリューゲルの間


ルカ・ジョルダーノ「大天使ミカエルと叛逆天使たち」
大天使ミカエルはカトリックでは有名な戦う天使である。反逆した天使を踏みつけているが、踏みつけられているのは新教の宗教改革者たちであり、この絵の意図は反宗教改革であると音声ガイドは説明していた。

最後の日は午前中にシェーンブルン宮殿へ。ウィーンでもっとも観光客が集まる場所ですごい人だった。わたしたちは一番短いツアーのチケットにしたがそれでも2千円ほどして国家収入が潤うだろうと思った。ウィーンの印象はハプスブルク家の絶大な権力の残像だった。

ウィーンからパリはスペインのLCCを予約しておいた。格安航空らしくチェックインの場所は離れていてさらに最初は一人分の搭乗券しかくれなかった。余裕を持って来たのでカフェでお茶(ビール)をする余裕があった。搭乗口に行って、出発が2時間ほど遅れるのをメールの通知で知る。仕方なくカフェテリア方式の店で夕食を取る。

2017年5月31日水曜日

ブルノ 聖地巡礼

5月11日 理学部の物理、数学、化学の学問分野では「法則」がたくさんある。しかし、同じ理学部に属しながら、生物学で法則と名がつくもので一般に良く知られているのは「メンデルの法則」だけである。メンデルはブルノの修道院長でありながら、庭でエンドウマメの交配実験を行い、遺伝法則を発見し論文を書いた。その理論の前提となる知識が全くわかっていない時代に、メンデルは独自に法則を見出して論文を発表した。しかし彼の存命中にその発見の意味を理解できる者はいなかった。ブルノは決して学問の中心地ではなく、メンデルは生物学者でもなかった。しかし、数十年後に再発見されたメンデルの法則はその後の遺伝学発展の基礎となった。

遺伝学の講義をしていた時はメンデルの生い立ちとブルノの修道院の話から入る。だれがどのような時代になぜその研究を行ったかを話してきました。そこがとても面白いからです。チェコのブルノに行くことは当初の計画にはなかった。しかしこれまで遺伝学を講義してきた者としては、ブルノは是非とも一生のうちに訪ねたい聖地だった。地図を見ると、ブルノはプラハとウィーンの間にあってウィーンから1時間半ほどであるので出かけることにしていた。

ウィーン駅で朝食を買って列車に乗り込んだが、最初の駅で乗り換えが必要なことを確認し忘れていたという大失敗!駅員の人はこれでブルノに行くといい、列車はポーランドのものでインターネットが使えなかったので確認できなかった。その結果、乗り換えるべき駅を過ぎてからの検札で次の駅で別の列車に乗るように言われた。もし検札の人に言われていなかったなら、さらにどんどんブルノから離れて、最後はポーランドへ行くところだった。結局、2倍の時間をかけてお昼にようやくブルノに到着した。

 ブルノにはメンデル博物館がある。駅からトラムに乗って一つ行き過ぎて戻って、見つけたメンデル像の横で写真を撮り、博物館をゆっくり見た後にメンデルカフェで一息入れた。博物館の展示は、メンデルの法則をCGでわかりやすく解説したものと、メンデルが使った顕微鏡や杖、説教の草稿などの展示があった。博物館には人がほとんどいなかったがカフェは繁盛していた。その後、近くのStarobrno醸造所付属のレストランでビールを飲んで昼食をとった。ようやく日差しが強くなってきて人々は陽が当たるベランダ席で食事をしている。赤ちゃん連れのお母さんも食事に来ていた。ビールが美味しくまた2杯飲んでしまう。駅でコルナを使い切る買い物をして直通でウィーンに戻った。



メンデルの説教草稿
巡礼を終えてメンデルカフェでアペロール スピリッツとチョコケーキ(上に乗っているのは食用ホオズキ)
ブルノのビール Starobrno 1234年創業 ブルノで売っているビールはStarobrnoがほとんど 



2017年5月30日火曜日

古都プラハ


5月7日 チェコはこれまでずっと行きたいと思っていた国だ。音楽では、スメタナ、ドボルザーク、文学ではカフカの地であり、ヨーロッパの古い町並みが残っている街であるから。また、私が高校生の頃にあった政変「プラハの春」の思い出もある。チェコがソ連の共産党支配から脱して、非暴力で社会変革を行ったのである。

ドイツ鉄道のバスでプラハ中央駅に着き、換金してから駅の正面に出てトラム・地下鉄の3日券を購入した。チェコの通貨はコルナである。普通の乗車券だとスーツケースの持ち込みに追加料金が要るが3日券だと不要である。ホテルに行くためにトラムの乗り場を見つけて乗ったが、途中で路線番号が変わってしまい、急いで下車して2回乗り継いでホテルに到着。おかげでトラムの乗り方を少し学習した。

Hotel U Krizeは16世紀の建物を改装したホテルで4階の屋根裏部屋だった。このホテルは朝食込みで、温かい卵料理を3種類から注文できるのがユニークだった。また1階に2つのレストランがあって宿泊者は1割引きだった。その一つの店のチェコ料理がとても美味しくて2回も行った。

部屋は最上階で窓側の天井が斜めになっている。トラムの駅の近くでどこに出かけるにも便利だった。ホテルの前は公園で山がある。
 



プラハの町並みや雰囲気は3回行ったことがあるポーランドと似ていると感じた。両国は隣同士だし、同じ西スラブ語に属する言葉を使っている。ポーランド語とチェコ語は70%ほど似ているという。英語のアルファベットの上に多様なヒゲが頻繁についている。駅の名前などをチェコ語のアルファベットを音読して確認することが辛うじてできる状態だったが、どうしても読めない駅名もあった。街では英語がほとんど通じた。

プラハに来た人が必ず出かけるのはプラハ城とカレル橋である。プラハ城はこれまで訪れたどの城よりも巨大だった。そして1402年に完成したというカレル橋はいつも観光客であふれていた。プラハでの音楽イベントは、プラハ国立オペラ座でのドヴォルザーク作曲オペラ「ルサルカ」の観劇だった。オペラは人間になった水の精と王子様の話でとてもわかりやすいストーリーだった。日本での海外から来たオペラの公演は数万円の値段がするが、チェコでは5千円ほどだった。長い休憩を挟んで公演が終わったときは10時を過ぎていた。地下鉄とトラムを乗り継いてホテルに戻ったが夜の街も怖くなかった。


スメタナ、ドボルザークの博物館にも行くことができた。それぞれ少しわかりにくい場所にあって展示品は少なかったが、ゆっくりとした時間を過ごすことができた。どこに出かけるにも目的の場所を探し出すのに手間取った。ひとつには、iPadのGoogle mapに地図をダウンロードしているのだが、現在地の表示の正確性がないので目的の場所にたどり着けない。良い人に当たって的確に教えてもらって見つけたことが多かった。また、道が格子状でないのでたいへんだ。やっと店にい入ることができても、日本のようにはいかない。こちらの人はメニュウを前に時間をかけて考えていてなかなか決めないのだ。決めても担当者が来るまで待たなければならない。さらに食べ終わってから支払いまでも時間がかかるのである。



琥珀色で泡が多い このジョッキも気に入った
チェコのビールはとにかく美味しい。何杯でも飲めてしまう。0.5リットルで200円という安さも魅力である。ビールを飲むためにまたチェコに行きたいと思ったほどです。チェコ料理も何回か食べたが、独特なソースが特徴で、クネードリキという小麦粉のダンプリングがいつもついていた。


プラハ最後の日、駅までトラムに乗って行き、チェコ鉄道のオーストリア行きの1等車に乗車した。直前にならないと出発ホームが案内されないのでしばらく待った。車内ではレストランのメニューが配られ、正面のスコットランドのスターリングから来た夫妻はパンケーキとコーヒーを注文していた。私たちは、ホテルで作ってきたサンドウィッチで昼ごはんにした。昔だと国境でパスポートチェックがあったが、今はどこでチェコからオーストリアに入ったのかもわからない。 


2017年5月21日日曜日

マーラーとバッハと


アイゼナハ カールス広場のルター像

5月4日 マグデブルグでの演習参加を終えて、定年退官を記念した音楽旅行に出かけた。フランクフルトに移動して、成田から夕方に到着するMを出迎えて合流し、鉄道で夜遅くにアイゼナハのホテルに着いた。

アイゼナハに1泊したのは、ここがバッハの生誕地であり、ルターが聖書のドイツ語訳を行ったヴァルトブルク城があるから。今年は宗教改革500年で、そのことを覚えてドイツ各地で様々な行事が行われていた。ヴァルトブルク城、バッハ博物館などを観て、ライプツィヒに移動した。アパートメントホテルに着き、すぐにゲヴァントハウスホールに向かった。


ヴァルトブルク城

マーラーの交響曲に心酔していた青春時代があった。その頃の私が音楽を聴くのはラジオしかなかった。始まったばかりのNHKのFM放送はクラシックのレコードばかりを流していた。その中からマーラーの曲をモノラルでオープンリールのテープに録音して聴いていた。交響曲第4番をフリッツ・ライナー指揮のシカゴ交響楽団で聴いたのがマーラーの衝撃的な出会いだった(しかし、これはNHKの第2放送だった)。その不思議な音の響と流れが心に共鳴した。交響曲第5番は、ヴァーツラフ・ノイマンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮した演奏を録音して聴いていた。 高校時代にマーラーの交響曲のほとんどを聴いた。

それから45年以上の年を経て、ライプツィヒの地でゲヴァントハウス管弦楽団のマーラー交響曲第5番を聴くことができた。ホール横の2階席からは演奏者達がすべて見渡せて、打楽器、管楽器のそれぞれの演奏者の様子が見て取れた。

青春時代、マーラーのつぎに出会ったのがバッハだった。翌土曜日は、バッハの墓がある聖トーマス教会での演奏会に行くことができた。聖トーマス教会合唱団とゲヴァントハウス管弦楽団メンバーによるハインリヒ・シュッツの合唱曲、Ich bin ein rechter Weinstock、バッハのモテット、Singet dem Herrn ein neues Liedなどの演奏だった。この2日の音楽経験は完璧な組み合わせで、これまでの私の人生の歩みが慰められたような感動があり、後は何も加える必要がなかった。

2泊したライプツィヒからプラハまではドイツ鉄道の2階立バスで移動した。バスは3時間ほどプラハ中央駅に
ノンストップ到着した。

この後に行ったウィーン・コンツェルトハウス エントランスのマーラーの銘板

2017年5月2日火曜日

マグデブルグの日曜日 めずらしく晴天

研究室のキッチン
枝には蕾があって花が咲くみたい!

研究所は大学病院の敷地内にある。病院の入り口



ようやく春が!
欧州各地にある「躓きの石」4人はここに住んでいた。
お父さんは逮捕されブーヘンヴァルト収容所で殺害された。
残った3人はアウシュビッツに送られて殺害された。
娘のFriedaはその時17歳だった。

地元の黒ビール
ライチョウの絵柄はHasseröder醸造所の以前の名前に由来する

2017年4月30日日曜日

ドイツで演習に参加する


今回の旅の前半の目的は、Leibniz Institute of Neurobiology (LIN)で行なわれる、「Selfとは何か」という演習に参加することでした。参加者は、学部生、院生に加えてポスドクやスタッフもいて12人ほどです。研究所で実験をしている人もいれば、「哲学と自然科学」という境界領域専攻の学生もいます。講師はスペイン在住のイギリス人の翻訳家、著作家のRupert Glasgowで、どこの大学にも属さない謂わばフリーランスの学者です。使用言語は英語ですが、彼は、ドイツ語、フランス語、スペイン語に堪能です。そのような文系の方が、生物のことを幅広く勉強して、最近、このテーマで博士号を取得し、それが2冊の書物になるそうです。博士論文の審査員は、理系の教授と哲学の教授たちでした。彼がいかに型にはまっていないユニークな自由人であるかがわかります。 おそらく、日本ではこのように博士号を取得するのは無理でしょう。

海外で演習形式の授業に受講生の立場で参加するのは初めての経験でした。多数の個別のテーマについて参考論文が事前に送られていて、テーマごとに話し合いが行われます。ウイルスにSelfはあるか?免疫における自己と非自己、利己的な遺伝子、延長された自己とかです。

自由な発想で考えることがポイントだと思いました。全員が発言して、議論が絡み合いながらどんどん進んでゆく。同じ土俵の上で皆が発言している。講師が喋っているのは3分の1ほど。演習に遅れてきても早退してもまったく気後れすることがない。午前は9時から12時まで、メンザで一緒に昼食を食べて、休息してから2時から5時までという4日間のスケジュールである。現役の教官の時に参加するのはとても無理だった。


もしこの演習を日本で行ったらどうかな?といつも考えていた。というか日本では、なぜ同じようにできないのかと考えていた。私は、どのような規模の講義でも、意見、質問を求めるようにしてきました。しかし発言者が多くて困るということはなかった。このテーマだと、そんなことは考えたことがないから意見をだせないという反応が出てくることが予想できます。ところが、こちらの学生は長々と自論を話します。少々論点が違っていても気にしない。日本ではそのよう積極的に発言できる人はいるが、少数である。 
 

2017年4月28日金曜日

Berlin

ペンションがある建物のの入り口
今回のドイツ行きがパリ便になったのはフランクフルト着の便は安いチケットがなかったからである。1日余裕ができたのでベルリンに寄ることにした。JALパリ便の新しい機体は快適だった。オーバーブッキングのためにアップグレードしてもらったプレミアムエコノミーのヘッドフォンはノイズキャンセリングで、窓は電子式の色フィルター、トイレはウオッシュレットとなっていた。機内ではついこの間に観た「この世界の片隅に」を再び。2回観ると見逃していたところも見えてきてよかった。次「LION/ライオン 〜25年目のただいま〜」。5歳の時にインドで迷子になってオーストラリアで養子となった人が大人になって、google earthでインド住んでいた家を探し出すという実話による映画だった。インドの風景が懐かしかった。インドでは年間8万人の子供が孤児になるという。

シャルル・ドゴール空港、入国審査が長蛇の列で40分ほどを要した。これはパリで初めて。ターミナル1に移動して、ルフトハンザのカウンターでチェックインしようとしたら、germanwingだと言われる。確かにe-ticketをよく見るとgermanwingの文字があった!ルフトハンザのサイトで予約したのにフライトはgermanwingで発券はeurowingだった。ANAのサイトでPeachのチケットを買うようなことになっているようだ。食事は出ないだろうと思っていたが、小さなサンドイッチが出た。


Germanwingは2年前に副操縦士の自殺行為で飛行機を墜落させた航空会社なので、それと知っていたら乗らなかったかもしれない。チェクインも時間がかかり、さらに搭乗口が狭くて半数以上の人が立っているというのも格安航空だからということか。乗り継ぎの時間の余裕をとっておいてよかった。  

朝食!パンがたくさん!ハム、チーズのお皿の真ん中には食用ホウズキ
ヨーグルト、果物、シリアル
夜10時過ぎ。ベルリンのテゲール空港から乗ったタクシーの運転手がとても親切な方で、ずっと世間話をしていて(奥さんはポーランド人で子供は3人とかいろいろ,,,、着いたら荷物を持って宿泊するペンションに入るのを手伝ってくれた。建物の呼び鈴を押してドアのロックを外してもらってエレベータで3階に行ってという手順だった。一人だったら少し迷ったにちがいない。 

宿泊したのはホテルではなくペンションで古い建物だった。おじさんが出てきて、3本の鍵の使い方などを丁寧に説明してくれた。バスルームは共用だったが綺麗で問題なかった。時差ぼけで断片的な睡眠だった。朝食の部屋は古風でとても雰囲気がよい。食事の準備をしてくれるおばさんはとてもやさしい。15部屋ほどがあるようだ

ホロコーストを現したオブジェ

朝から雨。Google mapを頼りに地下鉄で移動し10時にユダヤ博物館に入る。ダニエル・リベスキンドという「建築しない建築家」の設計案が初めて採用されたという建物でとても斬新で理論的だった。日本語の音声がガイドを借りて回る。音声ガイドの項目が100以上あって、和訳もよくて詳細な説明が聴ける。




ヨーロッパでのユダヤ人の長い歴史を学ぶ。ユダヤ人に対する迫害は十字軍の時代から、ペストの時もあったこと、複雑な宗教、社会政治事情を詳しく学ぶことができた。多くの人たちが来ていて、学校の生徒たちも集団で説明を聴いている姿が印象的だった。歴史を学ぶことができる博物館である。このような博物館を建てるドイツはすごい。10時に入ったが出てきたのは2時過ぎだった。ペンションの近くにもどって、白ビールで一息入れて、一仕事をする。論文の査読をしなければならなかった。 

後部にはパイプオルガン 演奏もあった



 

夕方にペンションに戻り、周囲を散策しKaiser-Wilhelm記念教会でのコンサートに行った。隣の古い教会は戦争の時に破壊されたままで残っている。新しい教会は、全面が小さなステンドグラスの窓になっていて、正面に金色の大きなイエス像が掛かっている現代的で美しい教会だった。ベルリンフィルのメンバーによる演奏で、観光客向けのプログラムだったが美しいバイオリンの演奏と独唱だった。



コンサートの後で夕食の場所を探し、とてもよいドイツ料理の店を見つけて、ビールとアイスバインで夕食にした。メインの通りから入った場所という選択がよかった。

2017年2月28日火曜日

ショウジョウバエのメスは交尾後、夜にアミノ酸を多く摂取する

九州大学大学院システム生命科学府4年生の内園駿と大学院理学研究院の谷村禎一教授および伊藤太一助教らの研究グループは、ショウジョウバエのメスは交尾後の夜間にアミノ酸を多く摂取するようになることを行動実験によって明らかにしました。

 生物は地球の自転による環境の変化に対応するために「体内時計」を備えています。体内時計によって生物は睡眠などの行動を決まった時間に行うことができます。一方で、生物は生命活動に必要な栄養素を摂取するために、適切な食事をする必要があります。これら2つのバランスが崩れると、ヒトでは生活習慣病やその他の疾患を引き起こすことがわかってきました。本研究グループは、生命活動に必須なアミノ酸の摂食行動が体内時計によって調節されているのかをショウジョウバエを用いて調べました。


 アミノ酸の摂取は、交尾後のメスのハエが卵を産生する上で必要不可欠であることが知られています。そこで、オスのハエ、未交尾のメス、交尾したメスのハエで、昼間と夜間のアミノ酸の摂取量を比較しました。その結果、交尾したメスのハエでだけ、夜間のアミノ酸の摂取量が劇的に上昇することがわかりました。しかし、この変化は交尾後にメスが卵を産生することで引き起こされるわけではありませんでした。また、体内時計を持たない突然変異体のメスのハエでは、アミノ酸摂取量の昼夜の変化が起こりませんでした。つまり、交尾を経験することが引き金となって、体内時計によるアミノ酸の摂取量の昼夜変化が生み出されるのです。


 ヒトでも妊娠中には味覚が変化するなどの様々な変化が起きることが知られていますが、そのメカニズムはよくわかっていません。今後、私たちは、交尾後にだけ現れるアミノ酸の摂取量の昼夜変化がどのように体内時計によって制御されているのかを解明したいと考えています。


 本研究成果は、2017年2月27日(月)午後2時(米国東部時間)に米国オンライン科学誌 「PLOS ONE」に掲載されました。


九州大学プレスリリース