2020年11月18日水曜日

日本のカレーとインドのカレー

インドに滞在しているというと「毎日カレー?」と訊かれることが多い。欧米では、日本ではいつも寿司を食べているの?と問われることがある。その場合、欧米の寿司と日本の寿司は違いはあるものの、たいだい同じものである。しかし、カレーの場合には日本とインドのカレーはまったく違うので答えられない。

インドには日本のカレーはない。日本のカレーは日本人が作り出したものである。日本人は海外の食メニューを作り変えるのが得意である。ココイチが最近、デリーに出店したが、インド人はこれが日本のカレーかと驚いているはずである。

ではインドのカレーはどのようなものか?「インドとは?」という問いから考え直したい。インドは多くの国が集まった連邦国家のような国である。言語にしても少なくとも24ある。カレーも場所によって家庭によっても異なっている。

多数のスパイスを混合して、インドではベジタリアンが多いので、野菜や豆のカレーが、丸い金属の容器に入っているのが出る。レストランに行けば、チキン、マトン、エビ、カッテージチーズを煮込んだカレーがある。それをお米や様々なドーサと食べる。日本のインド料理の店ではかならずナンがあるが、インドでは多種類のナンに相当するものがある。

 
          レストランでの"パン"の種類

2020年11月15日日曜日

serendipity 科学的発見は偶然に 

これは昔書いた文章です。
 
昨夜、ストックホルムでの本庶先生のノーベル賞受賞講演を聴きました。最初は少し緊張されていたようでした。話の内容はもちろん研究中心でしたが、天文少年が医学部を目指すようになったのは野口英世の伝記を読んでからだそうです。(伝記の野口英世は素晴らしいのですが、彼の研究に対する国際的な評価は高くありません)私が本庶先生の学術講演を初めて聞いたのは、たぶん先生が東大におられたときの遺伝学会、そして基生研だと思います。基生研の時の講演は流暢な英語だったので、その時のことを思い出しました。
 
本庶先生が若い時に米国のボルチモアのカーネギー研究所で研究を始めた頃のスライドがありました。私は30年ほど前にその研究所に行ったことがあるのですが、私が日本から来たと知って、たぶん技官をしている黒人の女性がTasukuは元気か?と尋ねました。
 
その頃、私は本庶研と共同研究をしていたので、もう偉くなっているよ!と返事をして、帰国して本庶先生に会った時にその話をしたところ、ああ(名前)ねと言われました。彼女がまだ生きていてTasukuがノーベル賞を受賞したことを喜んでくれればいいなと思いました。

講演の中で「私はただ幸運だった」という言葉が印象的でした。研究者が画期的な成果をあげられるかは、多くは運だと思います。だから、成功した人も、しなかった人もそれほど違わなくて、多くの人が挑まないと新しい発見は生まれないのです。

2020年11月13日金曜日

言い逃れる言い方 第3波

2020.11.12
日本医師会「第3波と考えてもよいのではないか」
加藤勝信官房長官「政府は具体的な定義を定めているわけではない」


10月末の北海道の感染者数の上昇率を見ていると、このまま増加して第3波になることが予想された。同様の傾向は大阪や愛知でも見られていたので全国的に広がっていくと思われた。実際、11月に入ってからもその傾向は続いたので第3の波が来ているのは明白である。

政府は「11月以降、増加傾向が強まっている」と述べているが、それは第3波とは言えないという主張だ。政府が具体的な定義を定めているわけではないという主張の裏は、定義を決めてそれに当てはめて言うべきであるという考えだろうか。もし定義するならば統計的な検定値が必要で簡単にもっと早期にできる。専門家委員会で定義して、そのデータを元にして国民に注意勧告してほしい。

問題は、政府がこの数ヶ月の間、感染を広げる可能性が高いGOTOキャンペーンなどを推進してきたので、それが感染者の増加を引き起こしたのではないかという検証が必要である。GOTOで北海道へいつ何名が行ったかのデータは集計できるので、そこから数理モデルで考えることはできるはずだ。モデルを立てるまでもないが....

数理モデルによる予測は、西浦先生だけでなく日本にいる多く数理生物の研究者もできるので、共同で取り組んでほしいものです。

 

2020.11.18 追加

昨日、Googleが日本の感染者、死亡者の予測を公開しました。日本にも予測できる研究者が多いのですが、西浦先生が非難されてからだれも公開しなくなったのは残念です。

2020年11月11日水曜日

ドイツでの暗闇の夕食 適正な明るさについて

30年ほど前に初めてドイツに行った時のことを思い出した。研究所に有名な昆虫生理学者のラボを訪ねた。セミナーの後で、先生の自宅に招待されて先生自ら夕食を準備してくれた。先生は一人住まいだった。あなたは疲れているからソファで横になって休んでいなさいとオレンジジュースを出してくれた。

夕食が出来上がって二人で話をしながら食べ始めた。日が暮れて部屋がだんだんと暗くなっていくのに先生はなかなか照明を点けない。暗闇の中で二人で話していた。何を話していたかはもちろん覚えていないが、暗い部屋の中の情景ははっきり覚えている。高齢の著名な先生が日本から来た若造に夕食を手ずから準備してくれるなどという体験があったことは、いまでも信じられない。

海外で煌々と明るい家には日本人が住んでいると言われるそうだが、日本の夜、室内は明るい。海外では、スポットライトを用いた局所的な照明が一般的だ。それもタングステンの赤い光だ。それはホテルでも同じ。国際線の飛行機内の照明も日本のエアラインは明るい。生物学的には、夜は暗くなるほうが生物時計にとって好ましい。明るすぎると時計はまだ昼かと思ってしまうからである。そして夜更かしの生活になる。

 日本の夜の室内照明が明るくなったのは、戦後、経済成長が著しかったころではないだろうか。人々は明さが豊かさ象徴と誤解したのではないか。節電的にも、生物学的にも夜は暗い方が望ましいが、どのようにしてその変革が始まるのだろうか?



2020年11月9日月曜日

多和田葉子「言葉と歩く日記」 

 多和田葉子「言葉と歩く日記」を読み終えた。多和田葉子は22歳でドイツに移住して以来ドイツに住み、日本語とドイツ語で小説を書いている作家、詩人である。興味深いのは、日本語とドイツ語を独立に操ってそれぞれの言語の小説を書いていて、例外を除いて自分の作品を訳さないことである。この岩波新書は「言葉」に注目して1月1日から4月14日まで記した彼女のユニークな日記である。

 日本からベルリンへ戻ったばかりなのに明日はアメリカに行かねばならない。

国際的に注目されているこの作家は、いろんな国で開催される文学と言語に関わる集まりに頻繁に招待されて、自分の作品を朗読したり講義をしている。そのいくつかは文学カフェのような雰囲気のものではないかと思う。そこには、異なる国の出自も違う様々な作家が集うことがあり、言語世界を交叉するようなコスモポリタンな空間ができるのだろう。一度、加わってみたい。

この日記で、興味をそそる多くの話題に接することができたが、以下の2つだけを取り上げる。

⭐️ 有名な川端康成「雪国」の冒頭である。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
これをサイデンステッカーは次のように訳した。
The train came out of the long tunnel into the snow country.
この様子を描いてもらうと、日本語を読んだ人は車内からの情景を描き、英語の人はトンネルから出る列車を上空から描くという記載があった。pp.173 このことを少し考えてみた。

日本語には列車という主語がなく、読者は、私あるいは誰かが乗っていた列車を主語とし補足して読むので、情景は車内からになる。英文には私はいなく、列車が主語であるので外からの情景になる。英語では、I was on the trainを入れないと内側からの情景にはならないが「私」があると次の文章につながらないのである。

⭐️ ドイツの少年刑務所で受刑者たちが演じる演劇の公演があり一般の人が観劇できる。作家は応募してこの劇を観た。劇は演出家の指導があった。男性と暴力がテーマの劇は、ギリシャ悲劇を取り込んだもの。劇を観ていた看守が驚きの表情をしていたという描写がよかった。芝居が終わると100人ほどの観客と14人の劇の参加者が交流して自由に話をする立食ワイン会が持たれたという。作家は劇の参加者と話を交わしている。劇の参加者は、トルコとアラビア語圏の少年が多かったという。つまり、ドイツに移民として来て犯罪を起こしてしまったわけだ。pp.179

つい最近、福岡で更生中の少年が殺人を犯した悲しい事件があった。少年刑務所で受刑者が演劇をして一般の人と話をするという状況は日本では想像もできない。更生のプロセスとしてとても意味がある活動だと感銘を受けた。

「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦」というオンラインレクチャーがあるそうです。

 ほかにも考えさせられる文章があった。

福島原発で事故が起こった時、ドイツ人は自分の国に起きた事件のように大きな衝撃を受けた。そこから脱原発の結論が出るまであまり時間はかからなかった。pp.131

雪がゆっくり落ちてゆくのを見ていると心が落ちつく。わたしは前世はシロクマだったかもしれない。pp.114
 



2020年11月7日土曜日

実家はどちらですか?

「実家がドイツにある」と聞いて違和感を感じた。実家は日本にあるのが普通だと思っていたからだろう。「実家」は家を重んずる日本人らしい言葉だと思う。両親が住んでいて、自分が生まれた家というのが定義だ。しかし「実の家」という表現の背後にある考えは好みではない。「家」が途絶えなく移住もなかった時代の言葉だろう。

「実家がドイツにある」のは両親が住んでいるのがドイツという意味だ。では、両親がすでに亡くなって、その家はもう売り払ったという場合は、私の実家はもうないことになるのか。両親が老後に引っ越した場合はどうなるか。いろいろなケースがあるが、実家の意味は時代と共に変化している。私の実家はもうないと書くと、山崎ハコの「望郷」の歌を思い浮かべる。

「あの家に帰ろうかあの家に帰ろうか あの家はもうないのに」

広辞苑の実家の項目には「家制度の廃止によって、法律上は廃語になった」とあった。家制度は明治時代に民法で規定され戦後に無くなった制度である。
家制度で思い出したが、「父兄」という言葉が今でも使われている。これは直ちに廃語にしてほしい。

2020年11月4日水曜日

ヨーロッパ、哲学、音楽、歴史

これまで、フランス 、ドイツ、ポーランド 、インド、韓国の研究者と共同研究を行って論文を出すことができました。私が欧州に行くようになったのは2000年以降、韓国とインドは2010年以降です。それ以前は米国にばかりに行っていました。なぜなら、米国の科学研究は世界の最先端をいっており、大学や研究所の体制が優れていると思っていたからです。一方、欧州の科学は一歩遅れていて、行く価値はそれほどないと思っていたのです。学会などの学術集会も米国で開催されるのばかりに参加していました。しかし、米国の研究者との共同研究の論文は1編しか生まれませんでした。それも、last authorを米国の研究者が要求しました。

世界に先んじた研究を日本で行っても米国の研究に先を越される経験を何回かしたことがあります。米国の研究がトップを行っており日本の研究はその下を行くと思われている。もちろん、ノーベル受賞者を見ればわかるように日本がリードした研究はありますし、近年では米国、欧州でPIとしてラボを率いている日本人の研究者は増えてきました。

日本と米国の不均衡な関係の背景には日米の戦後史を無視することはできません。日本は戦後も米国の支配下にあり独立国家とは言えません。それは、沖縄を初め各地にある米軍基地を見ればわかります。基地とその上空は米国のものです。日本が米国の保護国であるという印象は多くの白人の米国人が抱いているのではないだろうか。

さて、 欧州の研究者と共同研究を始めると、対等な立ち位置でできることがわかりました。彼らも私たちと同じように、米国に対して対抗意識があるので共闘できます。フランスやドイツに行き始めて、その国の人々の半数ほどはアメリカ合衆国に対して良い印象を抱いていないことを知りました。アメリカナイズされていた自分には驚きの発見でした。少数ですがフランスには英語を話したくないという学生が今いました。

米国の研究者とそのような話をすることは皆無ではないが、欧州の研究者と親しくなってわかったのは、歴史、政治の話が普通にできることです。欧州に行くようになって、私は若いころにフランスやドイツの哲学、文学や音楽によって養われていたことを思い起こした。パリのカルチェラタンの通りを歩く時に、同じ道を歩いていた先達を思い出す。