2011年9月26日月曜日

サンクトペテルブルクの郊外にて

市内のホテルではフロントの人は英語が話せるが、学会が開催されたのは郊外のホテルだったので、貴重な体験ができた。

ホテルの受付に近づいてゆくと座っている女性が両手を横に振って来ないでと言っている。英語はだめだというサインである。ホテルの中にはなぜか迷彩色の服を着た軍人と思われる人がいる。

ホテルの地下のバーは降りていっただけではわからなかった。ドアを開けて入って歩いてゆくとバーがあった。たぶん日本の70年代頃の雰囲気である。入り口には用心棒の様な人が座っている。怪しげな赤と緑の照明の中、大音響で音楽がながれている。サーブする女性は絶対微笑まない。ウオッカのショットグラスが60ルーブルほど。朝の5時頃、酔っぱらいの現地の人たちが大騒ぎしてホテルから出て行った。

3食の食事はほとんど同じものが出る。自分でサーブする形式である。ワインはひどくまずいのでビールを買う。レストランのカウンター横のビールが置いてあるショーケースは常にロックされていて売り子の人にロックを外してもらってから開けることができる。なぜかいつも釣り銭がない。500ルーブル紙幣で釣り銭があるほどのビールを買わなくてはならなかった。ロシアのビールは100ルーブルほどであるが260ルーブルのドイツの輸入ビールを飲んだらとてもおいしかった。

ここに来る前にモスクワに3日間滞在していた米国人がいた。ガイドを雇って観光してきたという。ガイドがいないとどこに行くにも不自由だろうと言っていた。ヨーロッパから来ている人もロシアは初めての人ばかり。どこの国の人も査証を得るのに苦労したことを聞き安心した。

バスには車掌さんがいる。制服でないので最初はわからなかった。日本でバスに車掌がいたのはいつの頃であろうか。日本のバスの車掌さんはドアの横に立ってドアの開閉をしていた。ロシアの車掌さんは席が空いていると座っている。おかしかったのは、車掌がカードリーダーで乗車カードのチェックをしていることだった。


ペテルスブルグの地下鉄は核戦争の時のシェルターとして地下深く作られている。下が見えない。

ここで生き延びることができればたいていの国で大丈夫だと皆で話していた。

2011年9月9日金曜日

ロシア共和国入国査証取得までの道のり

外国に短期で行く場合に査証が必要なことは少なくなってきた。アメリカ合衆国は電子申請が必要でこのところ厳しくなったが。今回、ロシアで開催される学会に参加するために査証が必要だった。

学会に参加する場合はロシア内務省が発行する招聘状があれば問題なくビザが発行される。ところが、手違いがあって私には招聘状が届かなかった。その場合は、宿泊するホテルからの招聘状があればよいということで発行してもらった。申請には東京、札幌、大阪または新潟の領事館に出向く必要がある。行けない場合は、代行業者に代理申請してもらう。発行まで通常1週間かかるので2度東京に行くことを考えると1.5万ほどの手数料は仕方ない。

ロシアに一人で旅行する人はあまりいなく団体が多いと思う。その場合は、日本の旅行業者が手抜かりなく書類を作成するだろう。申請にはホテルのバウチャーと旅行業者が作成した旅行証明書が必要だという。旅行代金が支払われており現地では旅行会社がすべて面倒を見るという証明である。

さて、1回目の申請は、ホテルが作成した招待状にロシア外務省が発行した6桁の数字が書いていないという理由で受け入れられなかった。7桁の数字が書いてあったが6桁の数字が書いてあるはずという。学会主催者に助けを求めたところ旅行業者に旅行証明書を作ってもらうことになり送られてきた。そこには6桁の数字があった。その書類でロシア大使館に行ってもらったが、ホテルの滞在の日程と旅行業者の書類の日程があっていないということで受理されなかった。ホテルの宿泊は実際の宿泊とあっていたが、なぜかもうひとつの書類では1日短くなっていたのである。ロシア人はおおまかですね。

何回も書類の依頼をして、最終的に送られてきた10枚目の書類で上手くいった。スキャンした書類はすべてメールの添付で送られてきたが、コピーで良いというのは助かった。日本ではコピーの書類は認められないから。東京の業者、領事館、現地のホテル、学会担当者を相手にたいへんな2週間だった。

最終的に査証がもらえるのは来週の木曜日なので、私は金曜日に東京の旅行代理店に寄って査証がついたポスポートを受け取って、土曜に横浜の学会で話をしてその日の夜に成田から出発します。手続きがあと2日遅れていたらアウトだった。ロシアに行くのは諦めるしかないという思いが頭をよぎったことが1回だけあった。

1997年にロシアに行ったことがある。そのときの様々なトラブルの経験から、今回は何があっても驚かない、これで大丈夫と思っても裏切られることがあると覚悟していたが、まさか出国前にこのようなトラブルが待ち受けているとは思わなかった。

ロシアへの航路が少したいへんです。パリに早朝着いて、乗り継いでフランクフルト経由でサンクト・ペテルスブルグのホテルに入るのは夕方になります。

マルシェ

昔、共同研究の話し合いのためにひとりでディジョンへ行きました。訪問先のJが、明日の朝にマルシェに買い物に行くけど興味ある?と聞かれたのでもちろんと答え、朝、ホテルから待ち合わせ場所に出かけていった。彼の家庭では買物は彼の担当だそうだ。すべての食材を毎週マルシェで買うという。野菜、肉、魚、チーズなどあらゆるものを買うのにつきあった。ディジョン中心部ののマルシェはバレーコート2面分のほどの建物とその周囲に出ていた。Jは、店の人とは知り合いで、特に野菜売り場の人とは親しいようだった。挨拶を交わして雑談しながら買い物をしてゆく。チーズ売り場では青カビまみれのやぎチーズを勧められて日本へのおみやげに買ってくれた。買い終わると彼の登山リックが一杯になった。ラボに行って冷蔵庫に収納した。マルシェは好きでいつもパリで歩いて見ているが、現地の人が買うところを実際にみることができてとてもよい経験だった。

フランスでも大型スーパーができてそこで買物をする人が多くなっているが各地でマルシェは健在である。現地の人とスーパーに行ったときに、大量生産されていてどこでも売っているチーズをカゴに入れたらこれはやめておいたほうが良いと言われてた。そして売り子の人がいるスーパーのなかのチーズ売り場に行って、相談しながらお勧め現地特産のチーズを買うことができた。地方の特産物に対するフランス人の思い入れを強いことを感じることができた。

2011年9月3日土曜日

The Times They're A Changing

ぼくが若かった頃、ラジオから流れるビートルズやPPM (Peter, Paul & Mary)、ボブ・ディランを聴いていたとき、彼らが一体何を歌っているのかと知りたくて必死だった。学校帰りにレコード屋に行って歌詞を見たり楽譜の本を買ったりして数曲は訳していた。特にボブ・ディランの歌詞にはまっていた。PPMがディランの「時代は変わる」を歌うyoutubeの映像が懐かしい(Mary Traversは2009年に亡くなったが、If I had a hammerを歌うMaryが一番好きだった)。反抗的な人間であったぼくは「時代は変わる」の歌詞に悲しいほど酔っていた。そのころ息子であったぼくが父親という逆の立場に立っているのが不思議だ。しかし、若い人が大人の世界観や価値観に反抗するということが、いまの時代はなくなってしまったのはなぜだろう。一方で、その時代の「反抗」によって世の中は何も変わらなかったことを知らなければならない。

Come mothers and fathers
Throughout the land
And don’t criticize
What you can’t understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is rapidly agin’.
Please get out of the new one if you can’t lend your hand
For the times they are a-changin’.

ラテン語やドイツ語のクラシック音楽の歌詞は聴いていてもほとんど理解できないので原語と訳を見ながら聴いている。しかし、英語の歌については、最近そのようなことをしていなかった。ところが、先週、歌詞と訳を見ながら聴いているという方の話に刺激されて、自分も歌詞のテキストをiPhoneに入れて聴いている。すると自分がいかに聞き取れていなかったのかがわかる。PPMの時代の歌は英語の聞き取りがたいへん易しい。英語の歌を聴いてほとんど理解できるようになりたいが難しいですね。それにしても歌詞が簡単にダウンロードできるのは何と便利なことか。

神戸への旅行で昔の曲を聴いたのが刺激となって古い記憶がよみがえってきた。今朝、地下鉄の駅からこの建物に入るまでの間にこのようなことを思い出したのだ。