2013年5月24日金曜日

一度だけの出会い

ベルリンで自家製ビールが飲めるビアレストランは予約で一杯だったので、空いていた大きなテーブルの端の席に座って4種のビール試飲セットを注文した。向かいの端にも男女が座っていた。その一人が席を立ったときに男性が話しかけてきて、彼がケンブリッジ出身で今はベルリンの学校で英語を教えていること、ベルリンはいいね、などとしばらくお喋りした。帰り際に、彼は Enjoy your beer! と言って去っていった。

日本でも屋台であれば一緒になった人と話をすることは あるが、基本的に見知らぬ人と話すことはあまりしない。昨日読んだ英会話についての文章で、エレベータに乗り合わせた知らない人に話しかけて会話をするという課題が書かれていたが、米国では問題なくても、これが日本だと特に男性が女性に話しかけたら怖がられるだろう。

ニューヨークでバスに乗っていたときに見た光景である。前の席で本を読んでいた人の本を隣の人が本を覗き込んで話しかけた。たぶんその本について何かを話したん だと思うが、盛り上がってずっと話こんでいた。私も米国のエアラインに乗っていたときはかなりの頻度で隣の人と話をしたものである。アメリカ人は基本的に おしゃべりで個人的なことでもどんどん話してくる。名刺をくれて今度アメリカに来たときには遊びにきなさいと言われたこともある。実際、バーゼルに住んで いた写真家のスイス人の家を訪問したことがある。それに比べて、欧州の人は少しだけ内向的な感じがして、そのほうが私は安心できる。ポーランドの記念碑のそばで観光客に話しかけられアメリカ人だったというのが典型的である。

海外で困っていた時に助けられたことも多い。今回のソウルでも地下鉄で乗車カードを買うときにそばに立っていた方が親切にも教えてくれた。買ったカードはチャージしないと使えないのだが、私たちが買ったまま 乗車口に行ってエラーで困っていたら、先ほど人が人ごみの中を私たちの後を追って来てくれていて、お金が入っていないということを教えてくれたのだ。

旅には一生で一度だけの出会いがたくさんある。人種が違っても人間は皆、兄弟姉妹であることを思う。そしてそのような出会いが多くなれば民族の間の争いもなくなるはずだ願っている。

2013年5月22日水曜日

LeeuwenhoekとVermeer 2013-5

ドイツから帰国する日はケルンからフランクフルトへ移動しなければいけなかったが、フランクフルト空港での待ち時間に余裕があった。ネットでフランクフルトの情報を調べていたらシュテーデル美術館にフェルメールの「地理学者」があることがわかり行くことにした。

フランクフルトからボンに来たときはライン川沿いを2時間ほどかけて車窓を楽しんだが、ドイツ新幹線ICEだと別のルートを走り1時間もかからなかった。これまで何度も来たなつかしいフランクフルト空港駅に着いて、帰国便のターミナル2で荷物を預け、Sバーンでフランクフルト中央駅に行く。ところが、Sバーンの乗り場がわからず少し時間を無駄にした。ターミナル1に移動しなくてはいけなかった。次に、電車、バスが乗り放題で美術館の料金が半額になるwelcome cardの売り場がインフォメーションの窓口だけで、そこを見つけるにも時間を要してしまった。

シュテーデル美術館はマイン川岸にあり駅から歩いても行ける距離だった。こじんまりとした美術館だが、粒よりの作品の額がどちらかといえば無造作に並べてある。 このような絵画が日本に来ると、近づけないように柵が設けられ入場者が溢れるであろうが、ここでは人はまばらで何の柵もなく、写真撮影もOKである。ゆったりと独り占めして観ることができた。







 フェルメールの「地理学者」もただ並べているだけで特別扱いはされていない。昔、ルーブルでフェルメールの「天文学者」を観たが両者は同じ構図である。窓からの光に浮かび上がる地図を前にしてコンパ スを持った地理学者が目を凝らしている。彼が着ているのは日本の羽織である。棚の上の地球儀は誰が作ったのかもわかっている。私がこの絵画を観たかった理由は、このモデルの男性は顕微鏡観察で有名なレーウェンフックだという話を読んだことがあったからだった。レーウェンフックとフェルメールは共にオランダのデルフトの生まれで知り合いであったのである。

美術館を歩いていると驚きの発見があった。この絵画である。ケルンで滞在したホテルは新しいデザイナーズホテルだったが、部屋の机の横の支柱に掲げられていたのがこの絵画の複製だったからである。彼女に見つめられて数日間寝ていて、いったい誰の絵だろうか不思議に思っていたが、謎がとけた。イタリアの画家Pontormoの1540年頃の作品だった。





2013年5月18日土曜日

過去を心に刻むこと

4月27日、ベルリンで時間があったので「ホロコースト記念碑」(正式名:虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑)とその地下にある記念館に行ってきました。以前から行ってみたいと思っていたところです。記念碑は構想から17年を要し2005年に完成したものです。除幕式の式典で連邦議会議長が「記念碑は犠牲者の追悼に終止符を打つものではなく、現在そして将来も追悼の義務があることを示すものであり、現在および後世が過去の事実に向き合うことを可能にする場である」と述べたという



記念碑は、ブランデンブルグ門から歩いて5分ほどのベルリンの中心部にある。大きさが異なるコンクリートの柱が、規則正しく樹立していて、柱の間の狭い通路を歩くことで人々は何かを感じる。まさに異様な空間で、閉じ込められる、挟まれるという静かな恐怖を私は感じました。地下の情報センターには、ヨーロッパ各地から数多くの場所につくられた強制収容所に送られた家族らの資料があった。ここはユダヤ人に限定されているが、シンティ、ロマの人々も同じ目にあったのである。ドイツ大統領が述べた言葉が公園の記念碑に大きく掲示されていた。



ドイツの街を歩いていると金色の真鍮プレートが埋め込まれているのを目にすることがある。それは、ここにあった家の住んでいたユダヤ人の誰がいつどこの収容所に連れて行かれて殺されたかを記銘したプレートである。これは「つまずきの石(Stolperstein)」 というもので、 ドイツ人芸術家Gunter Demningが1995年に始めたプロジェクトで今では4万個のプレートが、ドイツだけでなく、オーストリア、ハンガリー、オランダ、ベルギー、チェコにも埋められているという。このようにドイツでは過去を心に刻むことが目に見える形で行われている。



帰国してからこの記銘を読んでいたら3名は家族であることに気がついた。父親は1938年に逮捕されてブーヘンヴァルト強制収容所からザクセンハウゼン強制収容所に移され、1942年にそこで亡くなっている。1938年は水晶の夜事件の年であるが、その年に多くのユダヤ人が逮捕されてブーヘンヴァルト強制収容所に送られたという。母と息子は4年後の1942年にワルシャワのゲットーに隔離収容され、Treblinka収容所で亡くなった。収容所で殺されたとき、父は53歳、母は49歳、息子は20歳であったことがわかる。この家族はここに住んでいたのである。 


 
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」
Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliesst, wird blind fur die Gegenwart.

             ヴァイツゼッカー独大統領「「荒野の40年」1985