2011年8月25日木曜日

BRAQUE

神戸ポートアイランドでのシンポジウムが終わって元町の中華街で皆で食事をした後に、友人と別れてから店を探して歩いていた時に音楽を流しているバーを見つけた。古いビルの2階のドアを開けると広い空間にソファの椅子がゆったりと置いてあり、ビートルズの曲が流れていた。レコードとたくさんの洋酒のボトルが並んでいる。ジャズからポップスのレコードは2500枚。いろんななつかしいポップスの曲を選んで1曲づつかけてくれる。レコードbar『BRAQUE』はとてもよかった。

私が好きなフランスの画家のひとりであるジョルジュ・ブラック(Georges BRAQUE)の絵が掛けてあったが店の名前はそこからつけたようだ。マスターは2年前に脱サラしてこの店を始めたという。置いてあったスピーカーがTANNOY Arden mkIIだった。Queenなど数曲をリクエストしてかけてもらった。バーボンを飲みつつ、年代物のスピーカーが味のある音を出していて感激。偶然とはいえこんなすばらしい店に巡り会えて幸せだった。是非、もう一度行ってみたい。

Georges BRAQUE  Black Fish


学生時代、仙台の繁華街から少し横道に外れたビルの地下にあった音楽喫茶の「無伴奏」に一人でよく行っていた。細い階段を下ってドアを開けると、殺風景な穴蔵のような室内には両側の壁に椅子が並んでいて紫煙が満ちていた。その情景は今もはっきりと覚えている。1杯のコーヒーを注文して、小さな黒板にリクエストの曲を書いてバッハに聴き入ったり本を読んだりしていた。多数のレコードはバロックの曲だけだった。そこは話をするのも憚れるような場所だった。皆が同じように静かに音楽に聴き入っていた。読んだことはないが、小池真理子の小説「無伴奏」はここを舞台にしていて、彼女が高校生の時に通っていたことを知った。この店は1980年代に閉店したがマスターは仙台の郊外でチェンバロを製作しているという。「無伴奏」はあの時代にしか存在し得なかったと思う。いまはどこにもない青春の思い出の場所である。

仙台ではジャズ喫茶にも時々行っていた。マイルス・デヴィス全盛期の時代だったが、ぼくはあまり好きでなく古い曲を聴いていた。ジャズ喫茶に行くのも一人だった。ゆっくり音楽が聴けるのはそのような所しかなかった。燻っていた学園紛争が終わろうとしていた殺伐としたキャンパスを逃れて通っていたのだろうか。

最近見つけた福岡のジャズバーのBrownyはたぶん1970年以前のレコードしか置いてない。このように古いものがいろいろな街で生き延びているのはうれしい。

2011年8月9日火曜日

CV

c.v.(Curriculum Vitae)は履歴書のことである。ラテン語で「人生の活動表」といった意味でしょう。日本では履歴書のファームがあってそれを埋めれば良いのですが、英文では書くべき情報は決まっていますがフォーマットはありません。したがって、いかにして魅力的なcvを書くかがポイントになります。また当然、国によってその中身は変わってきます。

今回、外国籍の方を雇用することになり書類の準備していますが、日本の事務の杓子定規さにはまったくあきれます。これまでの旅費の支払いなどで同様な事務処理をしてきましたが、雇用となると事務方が要求することは細かいです。まず、履歴は元号にして小学校からの学歴を書く必要があります。日本では4月1日入学とか書きますが英語では年しか書きませんが(時には書かない)、少なくとも月を書くように言われました。どうも日本は形式を重視して、英語圏では内容を重視するような気がしてなりません。

わたしはどちらかというと履歴などはどうでも良くて生身の人間を見て判断をすればよいという感じです。私が好きでないのはコンサートのプログラムに書いてある演奏者のプロフィールです。どの先生について、どこに留学してだれの指導を受けたかが詳細に書かれているのだが、それがどうしたと言いたい。むしろ知りたいのは、どうしてある曲を選んだかなど演奏者の音楽に対する考え方だ。

葬儀の時に、その人がこの世でなした業績や受けた栄誉が述べられることがある。しかし、この世を去るとき、人はこの世での業績や成果などを持っていくことはできない。たとえ持っていったとしても何の価値もないであろう。そのようなものを一切持たないで去る人と比べて人の人生の意味と重さに何の違いはない。人は裸で生まれ、また裸で帰ってゆくのだと私は思う。



コメントが入れられるようにしましたが、反映されるまでには少し時間がかかります。

2011年8月6日土曜日

フランスとドイツ


2006年からそれまでのフランスに加えてドイツに毎年行っている。その回数は9回にもなった。当初は、ヴュルツブルク↑(Würzburg)でここ数年はミュンヘンである。Würzburgはロマン街道の起点の古都である。Würzburg大学にはHeisenberg先生がいて昔から行きたいと思っていたがその機会がなかった。彼が定年で大学を去る前の数年の間に訪問できてよかった。ミュンヘンは、郊外のマックス・プランク研究所に行っている。どちらでも毎回2週間ほど滞在して実験を行っていた。

ドイツに行くようになりフランスとの違いを発見した。まず、ドイツの鉄道、列車は日本と同じように時刻表通りに動いていることである。突然の車両故障によるトラブルやストもない。ドイツではすべての交通手段が堅実な雰囲気である。タクシーがベンツであるように。

ミュンヘンでフランス人と連れ立ってドイツ料理のレストランに行ったときの発見。フランス人はドイツ語のメニューを見てもほとんどわからないのだ。フランス人にとってドイツは外国であり、フランス語とドイツ語は全く異なる言語であるという当たり前の事実を身を持って知った。食事の食べ方においてもフランス人はそろってメインディシュの皿をパンできれいに拭っていた。またデザートは欠くことができないことであることも。彼がレストランを見回してフランスではありえない光景があると言った。隣に年配の8人の男性がテーブルを囲んでいたのである。何の集まりかしらないけどフランスでは奥さんを家において男だけがレストランに出かけることはないという。

フランス同様にドイツには残っている地方色がある。日本では大都市に行けば、いや中規模の都市でも、全国にどこにでもあるチェーン店がある。札幌でも九州の焼酎が飲める。古都ヴュルツブルクには昔ながらのワイン酒場やビール酒場が数えきれいほどあるが、そこのメニューにあるビールやワインの銘柄の多くはここでしか飲めないものである。この地方の↓フランケンワインがとてもおいしいことも驚きの発見であった。ドイツでも全国規模の銘柄もあるが、地方色が強いのである。料理についても決して同じではない。ヴュルツブルクのfederweiser↓(発酵が始まったばかりのワインで秋口にだけ飲める)は他の都市は出回っていないのだろう。ミュンヘンのそれは、イタリアやオーストリアからのものが多いという。ミュンヘンにも数は少ないがワイン酒場やビール酒場がある。一方で、若い人は新しい雰囲気の店に行くことが多いという。