2021年3月30日火曜日

海外の国々を自由に旅行できるのは何年後だろうか?

ウィーンフィルが昨年来日してコンサートを行った。楽員は来日前から毎朝PCR検査していて、チャーターの飛行機に乗って来て、コンサート会場に行く以外はホテルからは出ないというやり方だっという。観客は半数だったか?それでも収支が問題ないということだろうか。

今回のサッカーの国際試合のために、日本は欧州のクラブの選手を数多く招集している。各国の選手をベルギーに集めて小型チャーター便で羽田に飛んでホテルの部屋に隔離して3日連続でPCR検査したという。これも、そこまでできる資金があるからだろう。

後日の報道によるとプライベートジェットで移動したのは全員ではなく数人、費用は3000万円という。


今年予約していた
ドイツでのコンサートが2つあったが共にキャンセルされ払い戻しを依頼した。一方のコンサートチケットは有効で、再指定できるとあったがキャンセルすることにした。ひとつは2年後、もう一つは3年後に延期される。

日本で昨年予定されていたコンサートがキャンセルになって今年開催する予定だったが、こんな状態ではできそうもないという話を聞いた。

ドイツでは長期的な見通しができたようだ。

来年はまだわからないが、再来年は自由に旅行できないかな?



2021年3月29日月曜日

意味がないコロナ感染対策をやめよう

🌟 ずっと疑問なのだが、建物などに入る時に体温を測るのは意味があるのだろうか。熱がある人は外出しないだろう。

 正確に測定できないことがある
 感染していても熱が出ていない人が多くいる
 平熱が高い人もいる


🌟 ホテルで隔離待機していた人が部屋を退出すると、業者が入って消毒が行われる。ひと部屋10万円とか?通常の拭き掃除でよい。ただしトイレは念入りに。心配であれば1-2日おいて次の人が入ればよい。


🌟 店で客が帰ると机や椅子などをエタノール消毒しているのも意味がない。園、学校などでも同様。通常の水拭き掃除でよい。

 🌟 アクリル板を設置すると対策が施されているという雰囲気がするが、大切なのは不織布マスクを正しく装着することと換気である。

🌟  いまだにフェイスシールドをしている人がいるが効果がない。

 

コロナウイルスは、エアロゾルによって空気感染するが、トイレでは接触感染が起こる可能性に注意すべきです。

新型コロナの感染者は腸にもウイルスが存在し、下痢を引き起こすことがあります。腸の上皮細胞にウイルスの侵入の手がかりとなるACE2が発現しているからです。また、無症状で何週間もウイルスが腸に存在しているケースが報告されています。

そこで、トイレのフラッシングにおける飛沫の発生にも注意すべきです。蓋をしてから流すことが必要です。さらにトイレ内での接触感染のリスクを考えるべき、トイレ使用後の手の洗浄が重要で、センサー付きの蛇口の使用が望ましいです。

2月2日の投稿「(6) 新型コロナの感染経路の誤解」に上記のことの理由が書いてあります。

2021年3月28日日曜日

文化大革命は何だったのか?

先日、中国の映画を見て文化大革命のことを思い出し、楊 継縄 Yang Jisheng著「文化大革命五十年」(岩波書店2019)を図書館で借りてきた読んだ。

プロレタリア文化大革命は1966年から1976年までの10年余の長い間続き、毛沢東の死が引き金となり終わった。ちょうど世界的な学生運動の時期と重なり毛沢東崇拝者が中国だけでなく世界中に現れた。しかし、
文化大革命の実態は権力闘争であって、そこに学ぶべき思想はなかった。

 
文化大革命の歴史的な研究は中国では公にできず、中国の公式の歴史から抹殺されようとしている。しかし、今の中国を考える上でも文化大革命の歴史的検証は重要だと思われる。

著者のYang Jishengは当局の圧力を受けており2015年に『炎黄春秋』誌から離任させられた。言論の自由が中国にはない。

思い出すのは、中国政府を批判し有罪となり、服役中にノーベル平和賞を受賞した劉暁波(1955-2017)のことである。彼が求めていたのは人間の自由である。本人がいない授賞式典で読まれた文章から。

憎しみは人類の知恵と良心を腐らせ、敵対意識は民族の精神を傷つけ、生きるか死ぬかの残酷な闘争を煽り、社会の寛容性と人間性を破壊し、1つの国家が自由と民主主義へと向かう道のりを阻むものだ。私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かしたい。

私は望んでいる。私の国が表現の自由がある場所となることを。全ての国民の発言が同等に扱われるようになることを。

そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、平和的に共存できる。多数意見と少数意見が平等に保障され、特に権力者と異なる政治的見解も、十分に尊重され、保護される。ここではあらゆる政治的見解が太陽の光の下で民衆に選ばれ、全ての国民が何も恐れず、政治的意見を発表し、異なる見解によって迫害を受けたりしない。
 

 文化大革命の時代の粛清による死者の数は確定していないが夥しい数である。人間の間の憎悪がいかに恐ろしいものであるかを思った。

 文革後、改革開放政策により中国の経済は拡大したが、一部の人に富は集中し貧富の格差が拡大している。政治は一党独裁である。



2021年3月15日月曜日

ファノン フランス マグノリアの庭

あることを知ると次につながって、さらに別のことを知りたくなるということが複数絡まった日々を送っています。

Eテレの100分de名著でフランツ・ファノンが取り上げられていた。

フランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」 (みすず書房 1970)

大学生の時に購入したこの本を書棚から探し出してきて50年ぶりに読み始めた。昨年出た新装版は4070円だが昔は800円だった。Eテレの番組で解説をしていたのが小野正嗣さんで、やさしい眼差しで、的確に話をする方だと思った。この人が書いた「浦からマグノリアの庭で」という本をタイトルで選んで図書館で借りてきて読んだ。

浦とは、彼の出身地である大分の蒲江町の地名からきている。マグノリアは、パリ郊外のオルレアンで彼が住んでいた家の庭の樹木である。その庭は広くて、いろんな果樹が育っている。知り合いになった大学教授クロードとエレーヌの家にあるアパルトマンに小野正嗣さんは5年間住んでいた。

その先生と、加えて先生の交流関係にある多くの人との交わりに入れてもらうという恵まれた住まいと庭なのだ。先生は何とパティシエでもあり美味しいお菓子にもありつけるという。先生は難民も住まいに受け入れていて、その人たちとの交わりもある。

フランスに留学した方が書いたものをこれまで何冊か読んできたが、小野正嗣さんほどに人との出会いに恵まれた滞在は聞いたことがない。偶然の出会いによって豊かな交友が開かれていくのだが、その偶然を引き寄せたのは小野正嗣さんの人間性なのではないか。この本を読んでいて楽しかったのは小野正嗣さんが会って話をした多くの人のことである。小野正嗣さんがテレビの番組でファノンについて語る時、ファノンがフランス領のマルティニーク島で生まれた黒人であった状況を身近な感じで話すことができたのも、マグノリアの庭を介して同じような境遇にあった人々との出会いがあったからだろう。

 「フランスの作家の中には、学校や刑務所などに出向いて、読み書きのワークショップを行っている人たちがいる。ジャン=イヴもそのひとりであり、そうした経験を通じて、彼は「書く」という行為、そして「読む」という行為が、生徒たちや受刑者たちの心にもたらす喜びやポジティブな力を強く感じ取ってきた。」

これは以前読んだ「言葉と歩く日記」にあった、刑務所での演劇にも通じると思った。

「世界的な名声を確立した人が、80歳になってもまだ学びたいからと古典ギリシャ語の勉強をやり直す。難解で知られるマラルメの詩を理解しようと、ずっと年下のクロードの教えを請う。」

このような生き方をしたいと思った。

2021年3月12日金曜日

ワクチン接種率の比較

100万人あたりの接種済み人数のグラフです。日本は一番下です。

このグラフに入れてないですが、イスラエルはほぼ終了しています。英国とアメリカ合衆国がすごい勢いで進めています。 米国バイデン大統領は7月4日の独立記念日までにワクチンの接種を完了に近づけたいと述べました。この傾きでいけば実現されそうです。

日本は、スタートもスピードも遅くて、いつ全人口の60%を超えるかも予測できません。せめて6月中に高齢者の接種を終えてほしい。たぶん、今回のワクチンが効かない変異体に有効なワクチンの接種がまた必要なのだから。

 

昨日、国は「新たな変異株を早期発見へ 大学・研究機関もゲノム解析」と言ってますが、その必要性は当初からわかっています。英国が全国の大学、研究機関で遺伝子解析のコンソーシアム COG-UK を作ったのは昨年の4月です。日本の専門家委員会には、ゲノム解析の重要性を理解できるメンバーがいなかったのだろう。そうであれば、 国の方針抜きで、研究者自身が組織化できなかったのか?

 


2021年3月11日木曜日

10年前のこの日

 10年前、東北に地震が起きた時、ぼくはミュンヘンにいた。地震と津波のニュースを聞いてある人はすぐに帰国したほうがいいと言った。その日はドイツからパリに移動する日だった。空港の搭乗待ちのところにテレビがあって、福島の原発が爆発する映像が流れていた。土曜日にパリのホテルに着いて部屋でNHKの映像をPCで見て涙していた。翌日の13日の日曜日にノートルダムで追悼のミサが持たれた。

東北の海岸に造られたコンクリートの巨大な防潮堤は作るべきでなかったと思う。必要だったのは十分な高さの避難所の建設ではないか。

明治29年6月15日に三陸地方を大津波が襲った。そのとき、沖の方でノーンノーンという音が聞こえたという。言い伝えでその音が津波の音であると思った人々は避難して助かったという。昔は静かで自然の音が聞こえた。
            1978年に民俗学者の宮本常一が書いた文章

津波の発生は検知できる。津波が来ることをその地域にいる人に確実の通知して迅速に避難できるシステムと避難場所を作ることは、コンクリートの防潮堤と高台への移転の費用よりかなり安価でできるはずだ。

 

もうひとつ確認しておく必要があるのは、福島原発の廃棄処理の目処はほとんどついていないこと。

2021年3月10日水曜日

中国映画を観て文化大革命のことを思い出す

 先日、百道の総合図書館の映画館で中国の昔の映画を2本観てきました。共に毛沢東が文化大革命を進めていたころの中国の内陸部の農村での話で、文革はわたしの青春時代に中国で起きた出来事でした。文化大革命の実態を知ったのは、その騒ぎがおわってからでした。短く書けば、そのころの世界の若い人たちの一部は文革に何か良いことがあるに違いないと希望を持っていたのに、現実は夢からは程遠く落胆したのです。

『標識のない河の流れ』(1983)
河で木材を運搬する筏の船上が舞台です。年代が異なる三人の男が、筏の上で生活しています。そのうち、ボスと若い男性には、別れた女性がいたのです。文革が農村の社会と人々の関係を破壊していく様子が背景に見えてきます。ボスの男が陸に上がって一人でうどんを食べていた時に、分けてくださいと寄ってきた貧しい女性が昔思いを寄せていた女性であったことがわかったシーンが哀しかったです。

『青春祭』(1985)
文革で都市部の女子の学生が農村に下放され、雲南省のタイ民族の集落で生活する様子が描かれます。文革の頃、女性は着飾ったりしないので地味な服で来たのですが、周囲の影響を受けて現地の女性のように綺麗に着飾ってから、皆と馴染んでゆく様子が描かれます。少数民族が暮らす山と河の自然は美しい。もちろん水道や電気はありません。洗濯は川でして、朝は井戸から水を汲んで運んでくる。

彼女たちはさまざまな農作業を引き受けています。女性の監督の作品ですが、人間と自然への優しい眼差しが感じられます。
 

女子の集団と男子の集団が集落の外れた道で出会った時に、それぞれ歌の上手い子が交互に歌い交わす光景があって、その時のそれぞれの子の笑みと歌が美しかった。

下放を終えて北京の大学生になった女性が何年か後にこの地を訪ねるのですが、豪雨による崖崩れで集落は無くなっていたのです。先の映画のラストは、河で豪雨になって筏が激流に流され、他の者はボスに促されて河に飛び込んで助かったが、船に残ったボスは見つからなかったところで終わった。

2021年3月8日月曜日

ドゥイノとトリエステ

リルケの『ドゥイノの悲歌』を初めて読んだのは高校生の時だった。しかし、先ほどまで、ドゥイノがイタリアにあることを知らなかった。

イタリア半島の付け根のスロベニアとの国境から近く、トリエステにドゥイノがあり、その古城でリルケは詩を書き始めたのだ。
 

ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ? 

よし天使の序列につらなるひとりが不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはそのより烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。

なぜなら美は怖るべきものの始めにほかならぬのだから。

われわれが、かろうじてそれに堪え、歎賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことをとるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい。

須賀敦子さんの「トリエステの坂道」を読んでから、いつかその街を訪れたいと思っていた。そこに
ドゥイノがある。 サバとリルケがいた街を歩いてみたい。アドリア海に面した美しい海辺を。


 

2021年3月4日木曜日

Judy Collins 思い出の美しい歌

わたしの青春時代はアメリカでフォークソングが全盛で、その頃はベトナム戦争の時代でもあった。戦争は1965年から10年間も続いた。

その時代、Bob Dylan, Joan Baez, Peter, Paul and Mary たちの平和を求めて歌うプロテスタントソングはアメリカの良心であり、希望だった。中にひとり、趣が他の歌手と違うJudy Collinsがいた。彼女の懐かしい曲を聴いていたら訳してみたくなった。

 

My Father   By Judy Collins

フランスに皆で住もうと言うのが父の口癖だった

セーヌでボートに乗ろうと

そして わたしはダンスを習いたいと思っていた

 

わたしたちはそのときオハイオで暮らしていて、父は炭鉱で働いていた

父の夢のボートに乗ってわたしたちはいつか漕ぎ出すと思っていた

 

しばらくして、わたしの姉たちは、デンバーとシャイアンに行ってしまった

大きくなって ブーケを持っていい男と結婚する夢を叶えて

妹のわたしは取り残されて一人踊るだけだった

父の夢の色は音もなく褪せていった

 

 

そして、今、わたしはパリに住んでいる

子供たちは踊り、夢を見る

鉱夫だった父の人生のことを聞きながら

でも子供たちはその言葉を知らない

 

わたしはセーヌを渡るボートのように昔の思い出へと漕ぎ出す

そして、パリの太陽を見つめる

父の瞳に焼き付くように