2013年6月3日月曜日

インド旅行記 2013-3

最近、アジアの国に行く機会が与えられるようになった。韓国、台湾の次はインドである。インドに行くには査証が必要だ。2年前のロシア行きの時には出発前日に査証付きのポスポートを入手し、多額の費用も要したことが思い出され気が重かったが、インドのビザは郵送で出発の2週間前には取得できたのでホッとして出かけた。 福岡出国だったのもホッとできた理由だった。

フライトを調べるとインドは意外と遠い。以前も一度行こうとして断念したことがあったのだ。日本からムンバイへの直行便は成田からしかなかったので、福岡発のシンガポール航空でシンガポールで乗り継いで行くことにした。飛行時間は計12時間で欧州に行くのと変わらないが、5-6時間ほどのフライトに分かれるのでいいかもしれないと思った。

福岡からシンガポールへのフライトの隣の席は空席でゆったりできた。シンガポール航空の機内サービスは余裕を持ってサーブしてくれるところが良い。シ ンガポール・シャンギ空港は噂に聞いていた通り巨大な24時間のハブ空港だった。ターミナルを移動し2時間待ちである。インターネット接続が無料でできる のはよい。空港で目にする人々の人種は多様でおもしろい。人種の比率がユニークである。シンガポールで1時間時計を遅らせ、さらに2時間半遅らせる。1日 が3時間半伸びることになる。なんとかしのげる感じの時差である。 乗り継いだムンバイへの機内はインドの人がほとんどだった。

インドへの入国は何の問題もなかった。ただ、ターンテーブルで荷物を受け取ってから、さらにX線検査機を通らなければならなくそれが長蛇の列だった。ようやく通過して、両替をして外に出ると私の名前を書いたプラカードを持ったドライバーが待っていた。彼と外に出ると何番で待っていろと指示された。 車は遠くに駐めてあるようでしばらく待ってバンに乗り込んだ。

さて、宿泊は研究所のゲストハウスだったが、そこまでのドライブがエキサイ ティングだった。道路は3車線ほどだが5列ほどの車がクラクションを鳴らし続けながら隙間を縫って走っている。時々バイクも高速で走っているが、なんと家 族5人がノーヘルとか。信号はあるが無視する車が多い。夜の10時ころだったが歩いている人が多い。なかには狭い中央分離帯を歩いている人もい る。ムンバイはそんな無秩序な交通事情だった。

朝の風景
タタ基礎研究所(Tata Institute for Fundamental Research)は海辺に近い一角にあった。タタというのは人の名前で、彼が大財閥をつくり、あらゆる企業活動とともに慈善事業も行っている。基礎研究のための研究所もつくったのである。タタ・モーター ズは車をつくっている。研究所の入り口にはガードマンがいて警備が厳重で、研究所に勤める人の宿舎もその囲いの中にあった。

ゲストハウスの部屋は、シンプルでかなり古く快適とは言えないが慣れれば問題なかった。天井に大きなファンが回っている。エアコンはほとんど機能していないが、暑い割に湿度は高くなくて過ごしやすかった。

朝はアザーンの放送とギャーギャー啼くカラスみたいな鳥の声で目が覚めた。シャワーのお湯の出し方がわからなかったが、水も温く問題はなかった。食堂へ行ったが朝食の準備はまだだった。初対面の何人かと話をしながら待っているとやっとカレースープのようなものを含めて食物が出てきた。面白いのは一人でもできそうなのに準備をする男性が5名ほどもいたこと。

今回の集まりは、2010年に亡くなったVeronica Rodriguesのメモリアルシンポジウムだった。ただ、海外からの招待者でVeronicaを知っている人は多くはなかった。Veronicaとわたしは同じ頃にショウジョウバエの味覚の仕事を始めた。わたしが昔、岡崎の基礎生物学研究所にいた時に来日し1ヶ月ほど滞在した。彼女がケニアの生まれで、インド国籍を取得したのは随分と後のことであることをわたしが知ったのは最近になってからである。

今回の集まりで日本人は私一人で完全にアウェーだった。学会の初日が終わってから、皆で町に出てカフェ・モンデガーというパブでビールをジョッキで3杯は飲んで フィッシュ&チップスなどを食べた。フィッシュ&チェップスのことをcolonial menuっていってた。町の中は人が溢れていて少しカオス的ですが、バーの人は親切にサーブしてくれていました。 店を出ると男の子がついてきて、タクシーに乗っても窓の外からもずっとお金をくれと私をツンツしていた。なぜ私を標的にしただろう。インドの人からは無視しろと言われた。

わたしの発表は2日目だった。発表の準備が終わったのは直前だったが、何とか落ち着いて話すことができた。参加者は女性が多く活発に質問が出るのである。女性が元気なのは意外だった。



シンポジウムの最後のプログラムはHorszowski Trioに よるクラシックのコンサートだった。彼らは前日のBanquetにも来ていたので話す機会があった。RamanとJesseはアメリカ生まれで高校の同級生、3人共にJuilliardで学んでいる。彼らもインドは初めてだった。



Leopord Cafe 欧米の人たちがほとんど

歩道の理髪店
学会が終わった翌日の日曜日はフリーだったので、ドイツ人と二人でムンバイの中心部に行ってきた。観光名所の海沿いのインド門の周囲を歩いて町中をしばらく歩きました。強烈な悪臭が満ちた通りには物乞いの人がところどころにいて物売りを振り切りながら、交差点では赤信号でも突っ込んでくる車に注意しながら歩く必要があった。美術館を見てからLeopord Cafeでランチをした。1871年に出来たカフェで外国人が多く2008年のテロで攻撃されたことなので入るにも持ち物のチェックがある。ドイツの彼はアメリカでポスドクをしてからバンガローで5年のポストを得てインドに来ている。いろいろと個人的なことも話して親しくなった。

ムンバイの人口の半数ほどの人はスラム暮らしだそうです。スラム街はタクシーから見ただけですがすごい存在感でした。インドで貧富の格差の現実を初めて目にしたと思います。スラムの匂いを感じて実際に見てみないとわからない。市内のいたるところにスラム街があった。


車窓から見たスラム街

朝7時半に車がくるはずなのに来たのは8時過ぎだった。焦って電話をしたらあと10分で来るからと言われた。途中、市内のホテルでもう一人のせるということ で30分ほど待ってから空港に出発。朝の道は、車とバイクと自転車と人と荷車が混在しているような有様だった。制服を着て登校する子ども達の姿があった。 高速に入ると車道は4車線が実際は6車線になっていてお互いの距離は50センチほどで隙間を縫って走って行く。ホンダ、スズキ、トヨタが日本車で多く、 時々ドイツ車が走っている。タクシーは小型だが、小型三輪車も多い。途中で渋滞もあって心配したが出発時刻の1.5時間前に空港に到着した。チェックイン から出国、搭乗口までは極めてスムーズだった。何回もセキュリティーチュックがあったが。シンガポール航空は搭乗が30分前から始まる。機内は恐ろしく寒かった。前のおじさんは変色した古書を読んでいて、横の女性は手の甲までタトゥーをしているのは珍しい光景。帰路もスムーズだった。シャンギ空港での長い乗り継ぎ時間も、歩いたり休んだり食べたりして有意義に過ごすことができた。

念願のインドに来ることができ、また多くの人と知り合いになることができてよかった。ここでVeronicaと再会したかった。

インドにまた行きたいか?と尋ねられれば、わたしの答えはイエスである。なぜなら、この国のことをもっと知りたいと思ったから。今回は空港から宿舎まで研究所が手配してくれた車で行き来し、ガードマンがいる外国人が行く店にしか行っていないのでトラブルもなかった。しかし、まだインドの一面しか見ていない。 ひとりで来るには勇気がいるだろう。だれか一緒に行きませんか。


2013.7.30
Obaid Siddiqiが交通事故で亡くなったという知らせが入ってきた。Obaid SiddiqiはVeronica Rodriguesのボスで、二人がショウジョウバエの味覚と嗅覚の研究を私たちと同じ頃に始め、ライバルであった。昔、Obaid Siddiqi が仙台に訪ねてきたことがあった。デパートで一緒に買い物をした時のことを覚えている。そして、今年の3月に何十年振りでようやくインドで再会できたのである。会場でお互いの目が合ったときに彼だとすぐにわかった。ほとんどの講演に対して明晰な頭でそして大きな声で質問していた。彼がTATA研究所でのショウジョウバエの研究の創始者だった。彼がこの世を旅立つ前に会うことが叶ったのが幸運であったとしかいいようがない。

2013年5月24日金曜日

一度だけの出会い

ベルリンで自家製ビールが飲めるビアレストランは予約で一杯だったので、空いていた大きなテーブルの端の席に座って4種のビール試飲セットを注文した。向かいの端にも男女が座っていた。その一人が席を立ったときに男性が話しかけてきて、彼がケンブリッジ出身で今はベルリンの学校で英語を教えていること、ベルリンはいいね、などとしばらくお喋りした。帰り際に、彼は Enjoy your beer! と言って去っていった。

日本でも屋台であれば一緒になった人と話をすることは あるが、基本的に見知らぬ人と話すことはあまりしない。昨日読んだ英会話についての文章で、エレベータに乗り合わせた知らない人に話しかけて会話をするという課題が書かれていたが、米国では問題なくても、これが日本だと特に男性が女性に話しかけたら怖がられるだろう。

ニューヨークでバスに乗っていたときに見た光景である。前の席で本を読んでいた人の本を隣の人が本を覗き込んで話しかけた。たぶんその本について何かを話したん だと思うが、盛り上がってずっと話こんでいた。私も米国のエアラインに乗っていたときはかなりの頻度で隣の人と話をしたものである。アメリカ人は基本的に おしゃべりで個人的なことでもどんどん話してくる。名刺をくれて今度アメリカに来たときには遊びにきなさいと言われたこともある。実際、バーゼルに住んで いた写真家のスイス人の家を訪問したことがある。それに比べて、欧州の人は少しだけ内向的な感じがして、そのほうが私は安心できる。ポーランドの記念碑のそばで観光客に話しかけられアメリカ人だったというのが典型的である。

海外で困っていた時に助けられたことも多い。今回のソウルでも地下鉄で乗車カードを買うときにそばに立っていた方が親切にも教えてくれた。買ったカードはチャージしないと使えないのだが、私たちが買ったまま 乗車口に行ってエラーで困っていたら、先ほど人が人ごみの中を私たちの後を追って来てくれていて、お金が入っていないということを教えてくれたのだ。

旅には一生で一度だけの出会いがたくさんある。人種が違っても人間は皆、兄弟姉妹であることを思う。そしてそのような出会いが多くなれば民族の間の争いもなくなるはずだ願っている。

2013年5月22日水曜日

LeeuwenhoekとVermeer 2013-5

ドイツから帰国する日はケルンからフランクフルトへ移動しなければいけなかったが、フランクフルト空港での待ち時間に余裕があった。ネットでフランクフルトの情報を調べていたらシュテーデル美術館にフェルメールの「地理学者」があることがわかり行くことにした。

フランクフルトからボンに来たときはライン川沿いを2時間ほどかけて車窓を楽しんだが、ドイツ新幹線ICEだと別のルートを走り1時間もかからなかった。これまで何度も来たなつかしいフランクフルト空港駅に着いて、帰国便のターミナル2で荷物を預け、Sバーンでフランクフルト中央駅に行く。ところが、Sバーンの乗り場がわからず少し時間を無駄にした。ターミナル1に移動しなくてはいけなかった。次に、電車、バスが乗り放題で美術館の料金が半額になるwelcome cardの売り場がインフォメーションの窓口だけで、そこを見つけるにも時間を要してしまった。

シュテーデル美術館はマイン川岸にあり駅から歩いても行ける距離だった。こじんまりとした美術館だが、粒よりの作品の額がどちらかといえば無造作に並べてある。 このような絵画が日本に来ると、近づけないように柵が設けられ入場者が溢れるであろうが、ここでは人はまばらで何の柵もなく、写真撮影もOKである。ゆったりと独り占めして観ることができた。







 フェルメールの「地理学者」もただ並べているだけで特別扱いはされていない。昔、ルーブルでフェルメールの「天文学者」を観たが両者は同じ構図である。窓からの光に浮かび上がる地図を前にしてコンパ スを持った地理学者が目を凝らしている。彼が着ているのは日本の羽織である。棚の上の地球儀は誰が作ったのかもわかっている。私がこの絵画を観たかった理由は、このモデルの男性は顕微鏡観察で有名なレーウェンフックだという話を読んだことがあったからだった。レーウェンフックとフェルメールは共にオランダのデルフトの生まれで知り合いであったのである。

美術館を歩いていると驚きの発見があった。この絵画である。ケルンで滞在したホテルは新しいデザイナーズホテルだったが、部屋の机の横の支柱に掲げられていたのがこの絵画の複製だったからである。彼女に見つめられて数日間寝ていて、いったい誰の絵だろうか不思議に思っていたが、謎がとけた。イタリアの画家Pontormoの1540年頃の作品だった。





2013年5月18日土曜日

過去を心に刻むこと

4月27日、ベルリンで時間があったので「ホロコースト記念碑」(正式名:虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑)とその地下にある記念館に行ってきました。以前から行ってみたいと思っていたところです。記念碑は構想から17年を要し2005年に完成したものです。除幕式の式典で連邦議会議長が「記念碑は犠牲者の追悼に終止符を打つものではなく、現在そして将来も追悼の義務があることを示すものであり、現在および後世が過去の事実に向き合うことを可能にする場である」と述べたという



記念碑は、ブランデンブルグ門から歩いて5分ほどのベルリンの中心部にある。大きさが異なるコンクリートの柱が、規則正しく樹立していて、柱の間の狭い通路を歩くことで人々は何かを感じる。まさに異様な空間で、閉じ込められる、挟まれるという静かな恐怖を私は感じました。地下の情報センターには、ヨーロッパ各地から数多くの場所につくられた強制収容所に送られた家族らの資料があった。ここはユダヤ人に限定されているが、シンティ、ロマの人々も同じ目にあったのである。ドイツ大統領が述べた言葉が公園の記念碑に大きく掲示されていた。



ドイツの街を歩いていると金色の真鍮プレートが埋め込まれているのを目にすることがある。それは、ここにあった家の住んでいたユダヤ人の誰がいつどこの収容所に連れて行かれて殺されたかを記銘したプレートである。これは「つまずきの石(Stolperstein)」 というもので、 ドイツ人芸術家Gunter Demningが1995年に始めたプロジェクトで今では4万個のプレートが、ドイツだけでなく、オーストリア、ハンガリー、オランダ、ベルギー、チェコにも埋められているという。このようにドイツでは過去を心に刻むことが目に見える形で行われている。



帰国してからこの記銘を読んでいたら3名は家族であることに気がついた。父親は1938年に逮捕されてブーヘンヴァルト強制収容所からザクセンハウゼン強制収容所に移され、1942年にそこで亡くなっている。1938年は水晶の夜事件の年であるが、その年に多くのユダヤ人が逮捕されてブーヘンヴァルト強制収容所に送られたという。母と息子は4年後の1942年にワルシャワのゲットーに隔離収容され、Treblinka収容所で亡くなった。収容所で殺されたとき、父は53歳、母は49歳、息子は20歳であったことがわかる。この家族はここに住んでいたのである。 


 
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」
Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliesst, wird blind fur die Gegenwart.

             ヴァイツゼッカー独大統領「「荒野の40年」1985

2013年3月8日金曜日

「満腹」のシグナルは浸透圧

論文にはそれぞれ物語があります。今回の論文は、私が頻繁にドイツに行きっかけとなった仕事で、2007年頃に共同研究が本格的に始まりました。tanlabからは3名がデータを供給しています。この研究の過程で、栄養価学習の論文が 生まれました。最初の論文が仕上がってから発表までに3年も要した理由は、筆頭著者がこの仕事でPhDを取得してから研究の場を離れたので、投稿、改訂作業に手間取ったからです。昨年の夏に私が2週間MPIを訪問したときに連日改訂作業を行いようやく再投稿できました。2010年に投稿したときには厳しいコメントがついたのですが、時代の流れが変化したおかげで今回はす んなりとアクセプトになったのです。時代の流れが変化した」効果とは査読者の評価が流行に影響されていることを示しています。  
 
F. Gruber, S. Knapek, M. Fujita, K. Matsuo, L. Bracker, N. Shinzato, I. Siwanowicz, T. Tanimura and H. Tanimoto

Suppression of Conditioned Odor Approach by Feeding Is Independent of Taste and Nutritional Value in Drosophila. Current Biology 23, 1-8 (2013)

ショウジョウバエの味と匂いの連合学習の解除シグナルは、甘さでも栄養価でも食べた量でもなく、食物の浸透圧であることを発見

概 要
  ショウジョウバエの匂いと報酬の連合記憶発現を制御する「満腹」のシグナルが意外なことに食物の味や栄養価に依存しないことを薬理・電気生理・行動実験を組み合わせることによって明らかにしました。本研究成果は、2013年3月7日正午(米国東部時間)にCurrent Biology誌オンライン版に掲載されます。
 

背 景
 昆虫にとって、匂いと食物を関連づけて覚えておくことは重要な学習能力です。ショウジョウバエも、砂糖報酬によって形成された連合記憶を用いて特定の匂いに誘引されますが、そのためにはまずハエが空腹であることが必要です。空腹が記憶の行動発現の動機付けになっているからです。匂いと食物を関連づけて覚えたことは、満腹になることでその記憶を使う必要がなくなります。では、記憶発現を抑制するその「満腹感」の実体は何なのでしょうか。

これまでの考えによると、「満腹」のシグナルは食べた食物の栄養価や食べた量であると考えられてきました。しかし、今回の共同研究で学習実験と摂食定量実験などを行い、連合記憶の発現を抑制する「満腹」のシグナルが浸透圧であることを解明しました。
 

内 容
  多くの動物がそうであるように、ショウジョウバエの体液でも、主要なエネルギー源となる血糖はグルコースです。昆虫の場合、グルコースは二糖類であるトレハロースを分解して産生されます。そこで、トレハロースを食べても体内で分解できないようにトレハロース分解酵素の阻害剤を混ぜて食べさせました。しか し、記憶発現への抑制効果に変化はありませんでした。

 アラビノースという糖は、ショウジョウバエにとって甘くはありますが栄養価は全くありません。このアラビノースを与えても、同様に抑制効果に変化はありませんでした。これらの結果は、食べるものの栄養価が抑制効果には重要でないことを意味しています。さらに食べた量とも関連性がないことがわかりました。

 糖に塩やカリウム、アミノ酸のグリシンを混ぜると味が変わり甘みは抑制されますが、意外なことに、これらの混合物にはすべて記憶発現の抑制効果がありました。すなわち、甘さにも栄養価にも関係なく、食物の浸透圧が 高いことが「満腹感」を抑制する有効なシグナルであることがわかりました。

 さらに、遺伝的技術を用いて、人間のグルカゴンに相当するハエのホルモンであるAKHを人工的に放出させ、ショウジョウバエの血中浸透圧を上昇させました。すると、実際にはショウジョウバエは何も食べてい ないにもかかわらず、同様の「満腹感」の抑制効果が確認されました。
 

効 果
 浸透圧は食べ物の「濃さ」の指標ととらえるこ ともできます。これが満腹感のシグナルの一部であることは、満腹感がカロリーなどの単一因子により制御されているという従来考えられていたメカニズムとは 大きく異なります。ハエの体内における空腹度に依存した摂食行動と記憶の行動発現を制御するメカニズムは単純ではないことを示しています。
 

今後の展開
 ショウジョウバエが体内に持っていると考えられる浸透圧センサーが、どのような仕組みで働いて摂食行動を制御しているのか
を知ることが次の課題です。

2013年2月2日土曜日

モデル生物と非モデル生物

生物学の研究材料として一般に「モデル生物」とされているものがいくつかある。わたしが用いているキイロショウジョウバエもそのひとつである。「モデル生物」という言葉は20年前ほどからよく使われ出したように思う。だれがこのような言葉を作り出したのか? 分子生物学が盛んになった頃からか。大腸菌が最初の「モデル生物」だろう。

キイロショウジョウバエはモルガン以来研究に使われているが、モデル生物と急に言われ出してもねという気持ちがある。「モデル生物」という言葉を使うことにわたしは少し抵抗感がある。ひとつは「私の実験材料はモデル生物だといばっている感じ」がすることだ。

昔ある会合で「ショウジョウバエは虫ではなくて実験材料だ」と冷笑的に言っていた昆虫学者いた。分子生物学から参入してきた研究者がショウジョウバエを単にモデル生物としか見ていないことを批判したものである。わたしは一貫してショウジョウバエを昆虫として研究をしてきたつもりである。

「モデル生物」が備えなければならない特徴は、遺伝的な解析手段が可能かがポイントである。突然変異体の分離、遺伝子のマッピング、遺伝子の機能阻害、トランスジェニック手法などである。

昔は「モデル生物」でなかったものが近年「モデル生物」となったものがある。先駆的なのが、Sydney Brennerが確立した線虫C. elegansである。彼は突然変異体の分離から始めてその基礎遺伝学を一人で築き上げたのである。

シロイヌナズナ、ゼブラフィッシュもC. elegansと 同様に「モデル生物」にのし上がった実験材料である。「モデル生物」の特徴のひとつに飼育の容易さがあるが、ゼブラフィッシュは多数の系統を維持するに は水槽のスペースなどがたいへんでコストは高いだろう。ただ、ゼブラフィッシュはGal4/UASの系も確立しており遺伝的解析手段は豊富だ。

私はこれまでの共同研究で、センチニクバエ、クロコオロギ、蚊、ウリミバエ、アゲハを使ってきた。蚊の飼育経験はないが、ニクバエはレバーを買ってきて、コオロギ はネズミの固形飼料でラボで飼育した。ミバエは沖縄の虫工場でサンプリングしていた。ニクバエの飼育の匂い、コオロギの共食い、ミバエは死んでいても沖縄からの持ち出しに許可がいるとか実験外にもたいへんなことがある。このような材料を身近に扱うことによって、ショウジョウバエでは研究できないテーマについても学んできた。ショウジョウバエでは絶対研究できない行動は羨ましく思っている。

ショウジョウバエはモデル生物の代表であるが、モデル生物という言われ方で見落とされてきたことがあるように思う。例えば、遺伝的に均一な系統(ショウジョウバエの利点は近親交配が可能であったこと)を用いているというが、同じCanton-Sでもラボごとに違うはずである。さらに、野外の集団にある変異が無視されてきた。

非モデル生物の研究の方が面白いということもある。ただし非モデル生物の利点を生かした研究である。モデル生物の利点でゲノムが解読されているという点については、いまやどのような生物種でも可能になっているので利点ではない。

たしかに非モデル生物の研究者は冷遇されている。よほど自分が使っている実験材料の利点を魅力的に述べないと研究費が獲得できない。またモデル生物の研究を無視していては評価されない。モデル生物ではできないような実験を行わないとトップジャーナルに論文が出ない。フンコロガシが天の川を見てナビしているという仕事のように。

その意味で今回、共同研究のアゲハの電気生理が論文が、ほとんどが脊椎動物で、モデル生物の研究ばかりが出るJournal of Neuroscienceに載ったことは画期的なのである。

2013年1月15日火曜日

Online Publication

今では新しい科学雑誌が発行されるとwebで公開されて論文をダウンロードして読むことができます(所属大学が購読をしていればです)。レーザープリンターで瞬時にカラー印刷ができるのは、ひと昔からみると夢のようなことです。インターネットがなかった時代は、雑誌が発行されてから論文を読むまでには長い月日がかかりました。

まず、Current Contentsという分野別に発行された世界中の雑誌の目次を掲載した雑誌がありました。航空便で取り寄せたその雑誌をチェックします。雑誌のうしろに論文のリプリントを請求する人の名前と住所がリストになっているのでリプリント請求葉書に記入して送ります。(だから昔は自分が論文を出したら何通のリプリント請求が来るか楽しみでした。)するとひと月以上たって通常は船便で論文が届きます。いろんな国の記念切手が貼られていて、海外に思いを馳せたことを思い出します。しかし請求して送ってくれるのは半数以下だったと記憶しています。

そういうわけですから論文が発行されてから実際に読むまでには数ヶ月のずれがあるのが普通でした。リプリントが来なかった論文は図書館に行ってコピーをとります。図書館の雑誌は船便で届きましたからこれも遅いです。このような検索、作業にどれだけの時間を要していたのでしょうか。古い雑誌の論文のコピーの時は、暗い書庫を歩き回って製本された雑誌を探し出して、コピー機のところまで抱えて持っていたものでした。

昔は時間だけでなくお金もかかりました。論文を出した時のリプリントの印刷費用、郵送料、さらにコピーに費やした金額はかなりのものでした。まあ、コピーがなかった時代には手書きで写本でしたが。

さて最近では、雑誌がwebで発行される前に印刷用の最終論文が出来上がった時点で論文が公開されるようになりました。多くの雑誌が早さを競うようになっています。また、印刷雑誌がなくオンライン出版だけというジャーナルがこれから増えてゆくでしょう。

さて、便利になったことで人間は昔より賢くなったのでしょうか?
それが問題です。

2013年1月10日木曜日

Gurdonの机の上

日本のマスコミのノーベル賞の報道は過熱しすぎるし、また世間や社会はノーベル賞受賞者を過大評価する。今回の生理医学賞はJohn Bertrand Gurdonとの同時受賞であるが授賞式の日に英国ではあまり報道されていないようだった。私はJohn Bertrand Gurdonの研究者としての生き方が好きだ。彼が劣等生だったという逸話がいい。

「中・高校のころ生物学の成績が250人中、最下位だったことがある。それでも、生物学に興味を持った。大学には他人よりも2年遅れで進み、生物学を研究 した。この経験から得られた教訓は、とても興味をひかれたものがあるなら、決してあきらめてはいけないということ。いったんあきらめると、後からやり直す のは難しい」

彼の机の上には額に入れられた成績レポートがのっている。担当の教官は「彼は科学者になりたいといっているそうだが、それはまったくばかげており、何かの科学ができるような可能性は皆無である」と書いている。これをいまなお飾っているのはなぜかと問われて答えた言葉がよい。
 
“When there are problems, like when an experiment doesn’t work, which often happens, it is nice to remind yourself that perhaps after all you are not so good at this job and the schoolmaster may have been right.”



 

付記:彼のノーベル賞受賞講演は思い出話ではなく最近の仕事をとてもわかりやすく論理的に話している。実験結果から考えるという姿勢が貫かれている。高度な実験結果について話しているのにわかりやすいは論理がはっきりしているからだろう。