2022年6月9日木曜日

研究費の選択と集中の配分で大学はよくならない

文科省は新しい言葉を巧みに用いて大学を競走させてレベルアップしようとしている。 例えば2014年から始まったスーパーグローバル大学事業がある。ひとつに、講義を英語で行うという目標があるが、同じ内容でも英語だと学生の理解度が落ちることは明らかである。大学の世界ランキングを上げるのが目標だったが無理だ。

資金運用で儲けた巨額の資金を大学に投入すれば数年で成果が出て、特許が取れて金儲けができると政府の人は思っている。そのような応用志向の研究分野はあるが大学の理系分野のすべてがそうではない。応用研究は工学部の領域だろう。しかし、理学部の多くの研究は基礎研究であり、応用研究とは異なる方針で行われている。

理学部の生物にいた現役時代、私は、世界中でだれもやっていない独創的な研究を目指していた。研究は少額の研究費があれば一人ででもできる。成果が世の中で役に立つかどうかなどは考えなく、ただ、おもしろい着眼点による研究を志していた。研究の半数ほどは何も結果がでなくて諦めたが、数年経って新たなひらめきから新たに研究が進んだものもある。

研究費を申請する際に、その研究がどのような社会的意義があるのかを書く欄ができた。意義がありそうに読めるような文章をを書かざるをえない。

現役時代に業績評価が重視され、細々とした情報の入力を強制された。その中で納得できなかったことがある。5ヶ年計画を立ててそれがどれだけ達成されたかを自己評価する欄である。画期的な研究は突然のひらめき、思いつき始まるものである。しかし当初計画にない研究は評価されないのだという。 

どうすれば日本の教育、研究を変えることができるのか?教育に対する国の財政支出があまりにも少ない。見返りを求めない下支えが必要だと思う。教育に携わる人を増やして経済的に支えることだ。


 

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