2012年10月31日水曜日

台湾

10月22日の昼にHello Kitty Jetで福岡空港からから台北の桃園空港へ飛んだ。福岡から直接出国できるのは便利だ。今回、高雄で開催される学会は、韓国、日本、台湾の大学の理学部の交流を目的としているようだが、私が言われたのは院生を連れて行って英語で発表をさせればよいことだけだった。結果的には、私自身も発表をして、いろんな人に会えて台北でセミナーもできて、よい出張となった。

時差が1時間あって、2時間ほどで桃園空港に到着、入国審査もスルーだった。ATMで適当に台湾ドルをおろしてバスで新幹線の駅に移動。バスの中の雰囲気から異国だった。桃園駅の窓口で左営までの切符を購入。

台湾高速鉄道は日本の新幹線を導入したものだから新幹線とほとんど同じだった。高雄の手前の左営までの路線である。(高雄駅では工事が行われていて、もうすぐ高速鉄道の終点は高雄になるらしい。)新幹線を降りて在来線で高雄に行こうとして自販機で切符を買おうとして迷っていたら「複雑だから窓口で買った方がいいですよ」と親切に日本語で教えてくれた台湾の方がいた。

改札を通るとその方がいてホームまで案内してくれて、この列車に乗るといいよと教えてくれた。何をしに来たかとか、住んでいるところとかしばらく雑談し ていた。昔、仕事で日本に来ていたそうで、日本語がとても流暢だった。高雄で下車するとタクシー乗り場まで案内してくれて、家がホテルの近くだから一緒に 行きましょうと誘ってくれた。ホテルで降りて周辺のことを説明してくれた。このような親切な人に会うことができてほんとに幸せだった。

夕食はホテルの近くのたぶん少し高級な中華料理店を見つけて入る。英語、日本語が全く通じなかったけど、店の人のお勧めの美味しいお料理を楽しんできた。物価はだいたい日本の1/3ほどの感覚である。

台湾の方に夕食は家で料理しますかって尋ねたら「時々ね、週末にスーパーで買ってきた食材があるときにね。いつもは安い食堂で食べてる」ということでした。ただ、別の人に聞いたら学生は家で食べることが多いと言っていた。


孫文が設立



中庭のカフェ 

翌朝8時にホテルからバスで会場の大学に移動した。国立中山大学は、海沿いの山の麓にある美しいキャンパスだった。山にトンネルがあって地下鉄の駅から歩いていく場合はそこを通る。 ある国際的なランキングによると国立中山大学は九大より上だった。この大学は孫文が設立し、中庭の中央のドームにブロンズ像があった。


今回が2回目だというこの学会に参加してみて感じたのは、もう少し積極的に参加者が交流する機会があればということ。例えば、参加した日本の院生は台湾や韓国の院生と言葉を交わしただろうか。私はできるだけ話すようしていたが、院生にとっては(言語の)壁があるようである。来年は新潟大であるそうだが大変だと思う。台湾サイドは引き受けたからにはすべてちゃんとやるという態度だった。


学会ではまず基調講演があったが、数学や物理など専門外のものは当然あまりおもしろくなかった。その後、数学、化学、物理、生物、地学に分かれて、教官と院生の発表があった。私も味覚について講演をして座長を務めた。なぜか教官の講演が多くて院生の発表は少ないように感じた。九大の生物から院生は1人だったが、新潟大は3名だった。


分科会ではいつもは聴くことがない発表はおもしろかった。次世代シークエンサーを用いて配列を手当たり次第にリードして微生物やウイルスを同定するというやりかたで、キムチ、ザワークラウトなどの発酵食品に含まれる微生物やウイルスを同定していた。キムチを食べる時には何百種類の微生物とウイルスも食べていることを知った。また、海の中は微生物やウイルスの宝庫でおびただしい種類がいることも。ウイルスの30%ほどは未同定のものだった。

ホテルでのバンケット

最初の日はホテルに戻って豪華な晩餐会があった。出された料理はとても美味しかった。たいてい食べきれないほどの料理が出るが、残ったものはパックしてもらって持ち帰りにしていた。米国では"Can I have a doggy bag?"というが、台湾でもこの習慣があるようでした。


六合夜市

2日で学会は終了した。夕食は大学でのケイタリングだったので早くホテルに戻り、新潟大の人たちと六合夜市を歩いてから地下鉄の美麗島站のステンドグラスの「光之穹頂(The Dome of Light)」を観た後に、ホテルの近くの東京酒場という店でビールを飲みながら歓談した。




地下鉄美麗島駅

翌日はエクスカーションがあったが参加しないで、早起きして6時から朝食を食べてタクシーで高雄駅に行き地下鉄で左営に向かい新幹線で台北に戻った。中央科学院分子生物学研究所に向かった。知人のラボを訪問してセミナーをすることになっていた。中央科学院にはあらゆる分野の35の研究所があって、そのうち7つほどが生物に関するという。たぶん日本の理研レベルの研究所だろう。訪問者のセミナーは毎週行われているようだった。セミナーの後はラボで数人の院生から最新の研究成果を説明してもらったが、すべてとてもすばらしい研究内容だった。

セミナーの後は夕食会だった。6人のneuroscientisと食事をした。2人は上海からの中国人で明日から学会に出るために来た方だった。台湾の研究者と中国の研究者が何の壁も無く仲良く談笑しているのが見れてよかった。店の方とも楽しく話していた。上海よりも台北の方が物価が安いという。その店には輸入ビールしかなかった。上海から来た人が台湾のビールが飲みたいと言ってお店の人が買って来てくれた。しかし困ったことは、会話がすぐに中国語になってしまったことである。英語は皆がペラペラなんですが。


2012年9月25日火曜日

ドイツ、イタリア、フランス


帰国はパリのホテルを朝8時過ぎに出て11時発のフライトだった。機内ではほとんど寝ないで12時間後の朝6時に羽田着、すぐに乗り継いで福岡へは9時過ぎに到着。だから1日が継続している感じである。シャルル・ド・ゴール空港の出国口がこれまで見たことがないような長蛇の列で、ゲートにたどり着いた時には搭乗が始まったところ。不審物が見つかったので検査が強化されたようであるが、シャルル・ド・ゴール空港ではよくあることだ。いずれにしてもホテルを出てから家に着くまで待ち時間なしだった。

スーツケースの中身を取り出して一休みして家を出て、天神で定期券を購入してラボに来た。昼間の町が夢のようだった。あるいは、欧州の旅が夢だったのかもしれない。バターが溶けるほど福岡は暑い。欧州では暑さが懐かしかったのに。

見る人間が同じ人種だけなのは違和感がある。パリでは肌の色が異なる多くの人種がいることが日常の風景である。日本では、どこにも落書きが無くて電車が秒単位で正確に動いている。 ドイツの鉄道は正確だが、イタリアやフランスではありえないことだ。特にイタリアの新幹線の遅れはすごかった。

Max Planck Institute of Neurobiology

今回のマックス・プランク研究所のラボにはいつものメンバーに加えてサマーコースの学生がいた。彼女はバングラディッシュ出身のオックスフォードの学生で2ヶ月の間、朝早くからラボに来てテーマを与えられて実験をしていた。大学で公募しているこのプログラムに応募して認められると、旅費や滞在費が支給されるという。学部の3年くらいで世界の一流のラボに短期滞在するわけである。マックス・プランクには世界中の優秀な人が集まってくる。このラボは、ドイツ人は半分ほどで、あとはトルコ、キプロス、中国、日本、イスラエル出身の人である。

Neurofly 2012

Verona スカリジェッロ橋
ミュンヘンでの滞在を終えて空路Veronaに移動した。学会が開催されるPadovaには空港がないので、ヴェネチア、ボローニャ、ヴェローナ空港に飛ぶ選択があったが途中で立ち寄るのにヴェローナは良いところだった。ルフトハンザ便で予約したが、イタリアのキャリアのプロペラ機で機内はイタリアの雰囲気だった。バスでヴェローナ駅に移動して荷物を預けて歩いて旧市街を歩いた。コロシアムの近くのカフェで初めて飲んだSpritz Aperolがおいしかった。

暗くなってからPadovaに列車で移動しホテルへ。翌日、旧市街に出てみた。柱廊がある町並みで静かな雰囲気だった。パドヴァはイタリア観光ツアには組み入れられていないようだ宿泊したホテルには、連日各国のツアー客が宿泊していたが、このホテルが高速道路の近くにあり、ミラノとヴェネチアの中間点にあるからなのだろう。早朝、ツアー客はバスに乗り込んで去っていった。

伝統あるCaffe Pedrocchiで昼食。しばらくして学会の受付を済ませる。開会講演はPadova大学の伝統が染みついたような講堂であった。1222年設立で、コペルニクスが学び、さらには、ダンテ、ガリレオ・ガリレイ、詩人ペトラルカなどが教鞭をとっていたという。開会講演の後に、会場をかえてwelcome partyがあった。ラジョーネ宮Palazzo Ragioneというこれも古い建物で、内部には木製の大きな馬がおかれていた。国内外の多くの知人と挨拶を交わすことができた。

次の日からの会場は郊外にあり学会がチャーターしたバスでホテルからの往復だった。私たちの口頭発表は学会のバンケットの翌日。バンケットの席は丸いテーブルにわかれていたが、同じテーブルにセッションの座長である人が座ってくれたので親交を深めることができてよかった。

私たちが発表したアミノ酸の仕事は、直前に発表した私たちの論文を見てやられたと思った人が複数いた。このような裏話はしばらく話をしていないと出てこない。世界中の研究者が思いつくことは同じで、問題はそれをいかに行うかが肝要である。もし同じことを行っていることがわかれば相談して同時に同じ雑誌に投稿ができる。先を起こされると下のランクの雑誌にしか投稿できない。したがって、人のつながりと情報入手が重要なのである。

英語において大切なのは議論をすることである。書くことと聴くことの他に一番大切なのは自ら話すことである。興味ある講演をした人は必ずあとでつかまえて話をする。話をするにはその研究の背景を知っていないと話にならない。これまで国際学会に参加した院生には、できるだけ相手をつかまえて話しかけるように言っているがほとんど実行できていない。

学会の間、昼食は隣の大学の食堂で食べたが、パスタとメインが選べてイタリアの食の豊かさを実感した。食後のカフェとデザートは別のテラス席でとった。ヨーロッパの学会はお昼休みがたっぷりとある。

Paris

学会が終わってからパリに戻った。パリはもう慣れている。12年間ほとんど毎年来ているヴェルサイユの研究所への訪問も今回が最後である。ラボがもうすぐ別の所に移転するからである。夕方までサイエンスの話を続けた。パリでの最後の夕食は、カルチェ・ラタンの近くのチュニジア料理店でのクスクスだった。

今回は、ドイツ、イタリア、フランスと計3週間も滞在して、それぞれの国の違いと良さを続けて比べながら感じ、味わうことができたという意味で、これまでにはなかった旅であった。研究面でもわたしたちの仲間と相手がどのような人であるかを知ることができた。今回の旅の経験を糧として、新たな気持ちで研究に臨みたいと思う。

Spritz Aperol

2012年8月4日土曜日

杜の都に舞い降りて......

仙台空港への着陸は海側から降りてゆく。津波が空港の滑走路を越えていったあの映像を思い浮かべながら久しぶりの仙台に着陸した。ぼくが10年の青春時 代を過ごした場所だ。ここでぼくの進む道と生き方が決まったといってよいだろう。だがそれが「美しい季節だったとは誰にも言わせない」(ポール・ニザ ン)。ターミナルビルも仙台駅までのJRも完全に元通りになっていた。ただ、福岡-仙台のANA便は初めて聞くIBEXエアランズの運行で、空港で飛行機 まで長く歩かされて機内も狭くてさびしく思った。

仙台は「杜の都」とよばれている。最終日のポスター会場が近くだったので昼食を食べに東北大の川内キャンパスに行ってみた。キャンパスは青葉山のふもとに あるが、周囲にこれぼど緑が多かったのかと認識を新たにした。緑の記憶は残っていなかったのだ。懐かしい食堂の建物は昔のままであったが内装がきれいで、 横にはモダンな食堂もできていた。

仙台の牛タンがこれまでに有名になっているのは不思議だった。私が学生だったときも牛タンの店はあったが、たしか数軒だった。それが今ではあらゆる場所に ある。仙台牛はいるのであるがとても賄いきれないと思う。牛タンはアメリカから輸入されたものだ。福岡の名物の明太子の材料が北海道などから来ているのと かわりはないのだろう。

夜、店に入ろうとしたら3軒とも、もうすぐ終わりですといわれた。10時半に閉店だった。昔よく行っていた「無伴奏」は とうの昔になくなっている。しかし、Klebierという喫茶が同じような雰囲気であるということを知って行ってみたが、すでに3年前に閉店していた。一方で、スイングというジャズバーはアドリブとなって残っていた。いつものようにMal Waldronの"LEFT ALONE"をリクエストした。レコードをかける店は少なくなってゆくのだろうか。2時間ほどいたが客は私たち以外、来なかった。

 井上ひさしの小説「吉里吉里人」には、昔の仙台駅での有名な東北弁のアナウンスが紹介されている。

「しんだぇ、しんだぇ。どなたさまも落ちるかだが死んでからお乗りください。」

大阪弁や博多弁と異なり東北弁は自慢してしゃべる方言ではなかった。東京に出てきた東北人は訛りを隠すのに苦労していたのである。しかし、新幹線ができた頃からそのような雰囲気は弱まってきたように思う。

仙台市内では、震災、津波のことを感じさせるものは多くはなかった。しかし、市内を離れて北に行くと、復興がほとんど手つかずのままの風景がひろがってくるはずである。

2012年7月26日木曜日

考えて食べるハエ

以下の論文が726日にオンラインでリリースされました。
Taste preference for amino acids is dependent on internal nutritional state in Drosophila melanogaster. J. Exp. Biol. 215, 2827-2832, 2012


ショウジョウバエは体内のアミノ酸不足を感知し、味覚感度を変化させることにより、アミノ酸をより多く摂取することを発見
 
背景
人間は、ビタミンが不足していると野菜を食べたくなったり、必須アミノ酸が不 足するとタンパク質を食べたくなったりするのでしょうか。このような能力が人間に備わっているのかは未だ不明です。むしろ、甘くて美味しいと感じるものば かり食べることによって肥満や糖尿病になることが先進国では問題になっており、何をどれだけ食べるかを知るために栄養学の知識が不可欠となっています。私たちは、生物が臨機応変に適切な食物を選ぶ能力があるかを調べるため、ショウジョウバエを用いて実験をしました。

内容 
ショウジョウバエにとっても体内で合成できない必須アミノ酸があり、それらを摂取しなければメスのハエは産卵できません。そこで、ハエの成虫をアミノ酸を含まない培地で6日間飼育した後、糖とアミノ酸の2種類の溶液のどちらを摂食するかを調べる2者 選択嗜好実験行いました。この結果、アミノ酸を含まない培地で飼育されたハエは、アミノ酸を欠乏していないハエと比べてアミノ酸をより好んで摂食するとい うことがわかりました。つまり、ショウジョウバエは体内のアミノ酸レベルをモニターするセンサーを持っており、アミノ酸欠乏状態になると、アミノ酸を選択 的に摂食するようになる仕組みが存在するということが明らかになりました。また、ハエの口器にアミノ酸溶液を触れさせて吻の伸展反射を調べることで、実際 に、唇弁の味覚器について、特定のアミノ酸に対する感度が欠乏状態で上昇していることがわかりました。また、アミノ酸を欠乏したハエは糖を食べて満腹状態 であってもアミノ酸を摂食することがわかりました。このことから、糖とアミノ酸の摂食はそれぞれ独立に制御されていると考えられます。

効果
ショウジョウバエは、体内でアミノ酸が欠乏していることがわかり、選択的に食 物を選ぶ能力を持っていることが判明しました。これは人間が思っている以上に昆虫が高度な意思決定を脳で行い、環境に適応して生活していることを示す結果 です。生物研究のモデルとしてショウジョウバエで昆虫生理学の研究を行うことは、人間が持つ隠された能力を知るための重要な知見を与えることになります。

今後の展開 

ショウジョウバエが体内に持っていると考えられるアミノ酸センサーが、どのような仕組みで働いて摂食行動を制御しているのかを今後研究していく予定です。

考えるハエ(谷崎美桜子)

2012年5月24日木曜日

なぜ日本人はどこでも眠ることができるのか?

地下鉄の七隈線で列車が天神南に早朝に到着すると、車内で熟睡して降りない人が頻繁にいて、運転手さんは「終点ですよ〜」と大声をあげている。寝てる人が 起きない場合はドアを閉めてしまう(ワンマン運転なので後方の車両まで起しに行くことはできない)。でも折り返し運転なので5分ほどして反対ホームに 戻ってくる。

 フランスからの訪問者と講義棟を歩いていて教室の横を通った時、後ろのドアが空いていて多くの学生が居眠りをしていた。それを見て彼はおもしろがって写真を 撮っていた。フランスでは講義中、誰一人として居眠りしていなく、もし寝ていたら彼は追い出すと言っていた。講義中に眠られると教師の私は不愉快であるが、先生の話し方が眠くなるとか言われると反省をして色々と工夫をしている。

なぜ、日本人は電車の中で、講義室で、会議中にも眠ることができるのか。国会でテレビ中継の時にさえ議員が居眠りしている。海外の国際会議でも日本人の居眠りは有名だそうだ。いろいろな国から来ていて皆が時差ぼけなのだが、寝ているのは圧倒的に日本人だ。

欧米では車内で居眠するのは危険だ。海外から来た人が東京で車内で寝ている人を見るのはカルチャーショックである。日本は安全だから電車の中でも寝ることができる。でも、海外のラボにいた時、学生が机で寝ているのを見たことがない。なぜだろうといつも思っている。院生たちはラボでは集中して実験してさっさと帰る。日本でも就職して会社の机で寝ていることはないだろうから、緊張感の違いによるかもしれない。

ドイツでのことを思い出した。前夜遅くまで(早朝まで)ディスコで若い人たちが飲んで騒いでいても、翌朝はケロッとしてシンポジウム会場に出てきてトークもちゃんと聞 いているのにはびっくりした。日本人だと、二日酔いで出て来れないとか、出てきてもずっと寝ているだろう。これは生物学的な違いによると思う。

日本人が所かまわず海外でも寝ているのであれば、その主なる原因は睡眠・覚醒(あるいは集中力)に関わる遺伝子に違いにあるのであろうか。おそらくそうではなく社会的な要因によって形成されるのであろう。
 
一方で、サーカディアンリズムを考えるとお昼寝(シエスタ)をすることには生物学的に意味がある。午睡を制度化している高校や会社がある。お昼寝で脳の働きが良くなるのである。その場合、時間は30分以内が良い。それ以上寝ると夜の睡眠リズムに影響する。

私は、新幹線に1時間以上乗っているような状況でないと居眠りできない。それに、欧米に行くフライトではほとんど寝れない。ラボでは土日でだれもいないような時でないと居眠りできない。たぶんいつもは緊張しているのだろう。

2012年4月19日木曜日

豊かな時間の流れ

3月末にパリとミュンヘンに出かけた折に、パリ郊外にある知人のご両親の実家に週末お邪魔した。RER Aの終点の手前の駅から歩いて15分ほどである。終点は私が好きなsaint-germain-en-layeである。
セーヌ川に接したこの地域は歴史的にもおもしろい。その昔、バイキングがやってきて両岸の家々を破壊し尽くしたという。セーヌを遡ってこんなところまで来ていたとは。革命の時にはナポレオンの妻のジョゼフィーヌが疎開していた場所が残っている。昔ここの市長は農学の出であったので、この地域を野菜の生産地にしてニンジン町と言われていた。その後、ここには画家、小説家などが集まって来て住んでいたという。モネ、シスレーがここの岸辺を描いた絵がある。ノルマンディー様式の多くの住居が立ち並んでいて優雅な町並みが続いている。

家の周囲の建物はもとは一人の金持ちが所有し別荘にしていたところを個人が普通の住居にした。築100年以上の建物を改造して住んでいる。同じ通りの近所の人がとても仲が良く私も隣のおばさんとも英語で話をした。100人ほどの家族の皆で集まってパーティをするのだという。

土曜日の朝、近くのマルシェを1時間以上かけて回る。お店の人に質問したり解説を聞きながら色々と学ぶことができた。変わったリンゴとオレンジを買った。蜂蜜と白アスパラガスも。近くのチーズ専門店に行って種類ごとに希望を言ってdiscussionしながら6種類のチーズを買うことができた。こんな贅沢な買い方は手助け無しでは不可能である。

3種類のチーズはA.O.C.マークがついていた。これは、原産地呼称統制(品質保証認証マーク)の意味で、伝統的な製法を守って作られた食製品にだけ認められる。例えば、カマンベールは日本でよく知られているが、フランスでA.O.C.のマークを持っているカマンベールcamembertde normandieだけ。無殺菌乳を用いており熟成の進行によって味と匂いが変化してゆきます。缶でパックして売っている日本のカマンベールは殺菌していて熟成しない。

家に戻りランチ。まず買ってきたホワイトアスパラをビネガー、マスタードなどで作ったソースでいただく。サラダの後にチーズ、最後にパスタ。もちろん赤ワインをいただきながら。庭のテラスに出てデザートとコーヒー!優雅で満ち足りた時間だった。

豊かさとは何だろうと考えさせられた。古いものを大切に使い、地域性を重んじた食材をシンプルに料理してゆっくりと食事をする。それだけで豊かな時間が過ごせる。日本にいてそのようにシンプルな時を過ごすことはまれである。

2012年3月14日水曜日

悲しみと怒り

3.11の慰霊の式典で読まれた岩手、宮城、福島の遺族代表の言葉は悲痛だった。そのような悲しみが、亡くなられた2万人あまりの人、ひとりひとりにあって、数十万人をこえる人の涙になっているのだろう。

石巻の私の親戚の人も、車で逃げていたら助からなかったはずだが、心配になって会社に戻ったため、窓からとなりの工場の屋根によじ登ることができたので、そして、そこまでは水が来なかったので生き延びた。生き延びた人もそのような偶然に翻弄されて不思議にも助かったのである。

九州の地にいると東北の出来事が遠くのことに思えてしまう。想像力でもってしか共感できない。この1年の間、科学と社会について、原発と放射能について考えてきた。なかでもやっかいな放射能の問題は数値では片付かない心理的で政治的な問題であると思う。今はこれらについて書く時間がない。

2012年2月27日月曜日

PhD

私のラボの院生の一人が理学博士を取得して、ポストドクとしてもうすぐ米国に旅立ちます。博士号を得るには何の条件が要るのだろう。それは、巣立って独立した研究者としてやってゆけることだと私は思う。ではどれほどのレベルに達すればよいのかが問題である。その判断は指導教官に任されているが、私の基準は「研究者になるために」で書いたようなことである。

昔は、満足した結果がまとまるまで何年かかっても良いという雰囲気があった。満足できる一編の論文 が出れば良いという感じもあった。しかし昨今のアカデミアの状況を考えれば、できれば3年で取得するのがよい。しかし、実際には九大の生物で3年で博士号を取得する人は半数を大きく下回っている。

九大の生物で博士取得の申請ができる条件は、国際誌に少なくとも1編の論文が受理されていることである。国際誌の定義はない。例えば、国内の学会が出しているいくつかの雑誌はどうかと言えば、私的にはきびしい。国際誌といえなくはないが、掲載されているほとんどの論文は日本人のものであるし査読も国内で行われている。ただし、例外もある。

欧米では博士号を、Ph.D.というが、Doctor of Philosophyのことである。 博士論文審査公聴会は英語ではPh.D. defenceである。審査員の質問にたいして審査される者が的確に応戦することができるのかを判定する真剣勝負の戦いの場である。

Ph.D. は哲学博士の意であるが、ポーランドの知り合いのエラが Ph.D.を取得したときには文字通り哲学の試験があったという。日本でドクターを取得した人が、Ph.D.と書いている場合があるが、Doctor of ScienceとPh.D.は同じだろうか。

フランスで博士の公聴会の審査員を数回務めたことがある。九大の審査会とは随分違う。まず、審査員は学外、国外から招くようになっており、ドイツ、英国、オランダの研究者が来ていた。大きな講堂での発表が終わると審査員が質問をする がそれが長くて1時間を超える。関連分野全般に関わることも聞かれる。その後に審査員は別室でかなりの時間をかけて協議しランク付けをする。

公聴会には両親や友人も来ていて協議の間も待っているのである。そして判定が言い渡されてパーティーになる。

公聴会の後に不合格であったという話を米国で聞いたことがあるが、合格できるという見込みがあって初めて公聴会を開くのだと思う。日本で博士号取得の事務手続きは複雑で数回の会議を経なければならず3ヶ月ほどを要する。

さて、考えなければならないのは今の時代にあって博士号を取得することの価値が薄れていることである。博士号を取ってからポストドクとしての訓練をするわけだが、問題はその後のポジションである。

2012年2月26日日曜日

オシフィエンチムへ

M君は修士課程を終えて4月から社会人となりますが、卒業前に欧州に旅に出ます。ポーランドでは、アウシュヴィッツに行く計画です。

もし機会があるならアウシュヴィッツへは一度行って見ることをお勧めします。私が2000年に初めて行った時の旅行記から一部を以下に引用します。エラとは (Jagiellonian University コペルニクスが在籍した大学で1364年設立)昔、共同研究をしていました。

旧市街の中央広場のカフェ
晴れ間が見える朝となった。朝食後買い物に出る。中央広場の真ん中には織物会館があり、中に小さな店が並んでいる。10時の開館時にチャルトリスキ美術館に入る。美術館はホテルの真横の普通の建物でとても美術館には見えない。ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」を見るのが目的である。ダ・ヴィンチは肖像画を3枚しか残していないが、この作品は実際すばらしいものであった。しばらく佇んでいろいろな角度から鑑賞した。展示の中には確かに日本で見たことがある絵があった。昔、日本でポーランド美術館の展覧会がありその時に買い求めた絵葉書の絵であることがわかった。

バベル城
 12時近くにエラの車でオシフィエンチムへ。「アウシュヴィッツ」は独名である。昔からアウシュヴィッツに行くことを願っていたが、それがどこにあるかを知らなかった。今回の旅行の下調べでクラクフ近郊にある ことを初めて知った。「シンドラーのリスト」のビデオを見て予習もしておいた。駐車場にはヨーロッパの様々な国から来た車、観光バスがあった。「働けば自由になる」という有名な門をぐぐり中に入る。バラックの中の様々な展示物のすべては、大量虐殺がいかに組織的、徹底的に行われたのかを示していた。まさに、人間殺害工場である。150万人の命が消えた場所である。

 驚いたのはもうひとつのビルケナウ収容所である。「ビルケナウ」と呼ばれる当時のアウシュヴィッツ第2収容所も、現在ではポーランド語の村の名前から「ブジェジンカ」と呼ばれている。アウシュヴィッツはいわば実験場であり、ビルケナウはそれを大規模に実現したものでアウシュヴィッツの何十倍もの敷地であった。ビルケナウはナチスが撤退する時に破壊されたためガス室などは残っていない。しかし、その広大さには言葉がでないほどであった。ここには一時10万人が収容されていたという。

トラムの路線が多い
帰りに山の上にあるホテルのテラスで食事。収容所を見た後の余韻が残る状態では食事を楽しむという雰囲気はなかっ た。大学まで送ってもらい、私はエラのオフィスのコンピュータでメールをチェックして、すぐ横の公園を散策した。戻ったエラにホテルまで送ってもらい、御礼をいって最後の挨拶をする。米国の研究室を訪問する場合は夕食を一度一緒にする程度で、観光にまで付き合うことは皆無である。エラの接待は日本的である。ある本に「ポーランド人は客を親切にもてなすことを「神聖な義務」と考える」と書いてあった。

2012年2月17日金曜日

二度目の韓国

2度目の訪韓は一番寒い時期にあたってしまった。今回の旅の感想は「韓国の大学の研究環境は上昇中」である。これは昨年の3月の訪韓時にも感じたことであるが以下の3大学を訪問してその感を強くした。

Suwon  水原 Sungkyunkwan University
Daejeon  大田 KAIST
Gwangju 光州 Gwangju Institute of Science and Technology (GIST)

これまでは日本より遅れていると思われていた韓国がいろんな面で日本より進んでいると思った。例えば、シンポジウムを終えて会食に行ったが、個別研究費のクレジッドカードがあってそれで支払っていた。それどころか、院生たちだけの食事もその後のマッコリの二次会も研究経費で出してくれた。日本の大学では多くの場合、来客との接待費用はすべて個人の自己負担である。アメリカでは昔から研究費から会食代を支払っていたが、日本では今後も無理だろう。企業の接待費は膨大であるが、研究者が来客時に使う飲食費は頻度も少なく低額なのに。研究者が一緒に食事をするのは研究情報の交換がメインである。

今回は2名の院生を同行した韓国出張だった。一人は韓国に行くことにあまり魅力を感じていなかったが行ってみて考えが変わり、また良い刺激になったはず だ。特にKAISTでは院生同士がかなりの時間にわたって交流できたことがとても良かった。教官と一緒では、話題も異なるし、緊張して話ができなかっただろう。急なことだったのに院生が付き合ってくれた。KAISTでは講義も英語で行われており、院生の英語能力は高く研究者としての自覚もあり、日本人の院生と比べると差は歴然としている。

KAISTではラボマネジメントの話が印象的だった。廊下の培地用の冷蔵庫は業務用だったが、安いからというのが理由である。実験に使う小道具も安価で制作依頼して発注しているようだった。日本では特別注文で制作してもらうと膨大が金額がかかるが、韓国は人件費が安い上に技術力が高いと思った。光州のGISTでも海外のラボで使っていたmating chamberをコピーして制作したのを使っていた。GISTのラボはオープンスペースを自由に設計したため、ハエの飼育管理、行動実験の部屋が実に機能的に出来ていた。


大学国際宿舎
GISTの大学のゲストハウスに宿泊したが部屋は整っていた。日本で私は、基生研、遺伝研といくつかの大学の宿舎に泊まったことがあるがどこも最低レベルの部屋、貧弱な設備だ。GISTの宿舎は広さもありキッチンもついている。窓側には独立した洗濯物干しの小部屋まであった。また、ネット接続、テレビ、 冷蔵庫、インターフォンなどが完備し長期滞在も問題ないだろう。これまで宿泊した大学の宿舎で一番すばらしかったのはWürzburg大学である。シングルなのに広くて机がすごく大きくてキッチンも充実していた。それにスーパーがすぐ近くにあった。

今回訪問した3名のPIはすべて海外の一流ラボでのポストドク経験があり、同じ頃に韓国に帰ってきてラボを立ち上げたという互いに似た状況だ。皆が独立したPIである。彼らは頻繁に会って研究の話をしては飲み、そして皆が材料と情報を共有している。Waltonは、every single flyも共有していると言っていたが、その仲間意識はすばらしく、なによりも羨ましい。私も定期的に訪韓して加わりたいと思うほどだ。

大学以外ですばらしいと思ったのは、新幹線の中で無線LANが使えること、地下鉄にはホームドアが設置されていることなどだ。食事関係も衛生に気を配って いるようだった。また、レストランでの接客も良いと思った。福岡ー大阪往復ほどの距離の韓国新幹線の料金が4千円というのは信じられない。食事や交通費にかかる費用が日本よりはるかに安いのである。

すべて前菜(韓国の家屋を利用したレストラン、光州)
お皿が載った机が運ばれてきた

食についていえば、おかわりが自由な小皿料理システムはすごい。さらに、料理のバリエーションが多くてスープでさえも何種類も出てくるのは驚きだった。前菜の量もすごくて、メインデッシュが出てくるまえに満腹になってしまう。ただ、アルコール類は種類が少なく、焼酎も薄くて甘い。

日本と米英の科学基礎研究に勢いがなくなっている中で、中国、インド、韓国はどんどん伸びている。そのことを感じた旅だった。

2012年2月12日日曜日

生物系の研究者になるために

研究者としてやってゆくには、英語の能力を高めて世界的な視野を持つことが大切であることは繰り返し書いてきました。それに加えて必要とされることを書いてみましょう。

大学院の重点化という誤った政策によって大学院の定員が増えたことによって、博士号取得者の過剰、行き場のないポストドク問題が生じています。 加えて、世界的な財政危機によって、裕福だったアメリカ合衆国でも研究費が少なくなりポスドクのポジションの数も減少しています。

日本では今後、自由に研究ができる大学は少なくなってゆくでしょう。このような時代にあっても博士課程に進みたい方はよく読んでほしいです。日本の大学、科学には勢いがなくなっているので、先を見越す一部の人は、大学からあるいは大学院から海外に行っている時代なのです。

1. 研究への集中力
ラボに来た時、今日やるべきことが頭の中に入っていますか。また今週の、今月の、あるいは長期的な展望がありますか。その目標を自ら設定していますか。研究は強制されてやるものではなく、楽しいから好きだからやるのです。

海外の研究所で感心するのは、朝早く居室に来たと思ったら皆がすぐに実験室に籠もって仕事を始めることです。そして夕方になるとデー タをまとめて6時過ぎには皆がさっさと帰宅します。つまりラボは仕事をするところで、早く帰ってプライベートの時間を持つという姿勢です。これは米国でも同様で夜遅くまで残っているのは日本人か韓国人か中国人です。日本人はラボで遊んでいることが多いのでだらだらとなるのかもしれません。それは望ましい過ごし方ではないでしょう。

ラボにおける滞在時間が問題でなく、どれだけ集中して密度濃く、また効率的にやるかが問題です。ただ私の場合は例外で、仕事の量が多すぎて1日12時間以上集中して取りくんでも仕事が終わることがないのです。

会社・企業では社内のコンピュータを私用に使うことは厳しく規制されています。例えば勤務時間中の私的twitterが問題になっています。大学ではそこが自由なのでけじめがなくなる傾向にあるのです。自己規制しかありません。

2. 研究以外にも好きなことがあること
これは私の理想ですが、科学者としての評価の対象にはなりません。私は研究者であっても科学分野以外の分野の本を読む人が、音楽を聴いたり、絵画を楽しむ人が好きです。旅とお酒と料理も。付け加えれば、研究者が選ばれたエリートであることをぷんぷんさせている人が私は嫌いです。

3. 自立すること
ポストドクで行くラボのボスは放任主義かもしれません。これまでだれも成功しなかったテーマが与えられるかもしれません。研究者となるにはできるだけ早く自立することが求められます。与えられたテーマが上手くいきそうにないと思ったら、別のテーマを同時進行させる必要があります。つまり、自分でテーマを考 えることができるという能力が要るのです。ボスが自分で論文を書いてしまう人の場合はポストドク時代にも論文を書く能力が伸びません。

4. 学問的に重要な研究課題を思いつくことができる能力
研究課題のオリジナリティがとても重要です。たとえば研究費の申請をする場合には、分野外の審査員にその研究の新規性、重要性を訴えなければなりません。 ハイランクの雑誌に研究成果を出すには、学問的に重要(general interestがある)でなければなりません。研究テーマは無限にあります。でもそれがわかって何なの?と思われる研究が多いのです。だれも考えていないような研究テーマ、実験手法を思いつくことができる能力がとても重要です。

5. ラボ外にアドバイザーを持つこと
例えばラボで使われていない技術を導入する場合、ラボ内でアドバイスを受けることができないことがあります。そのような場合、ラボ外で質問できる人がいると良いです。欧米のラボは研究室の間に壁がなくてそれが比較的容易です。

学会では、たくさんの知り合いをつくってほしい。大ボスであっても若い人から話されるとうれしい。もちろん何を話すかが問題ではあるが。私が院生の時は国内の多くのボスたちと知り合いになっていた。また、国際学会では著名と言われる人たちと話すように心がけていた。

6. 挫折経験を乗り越えること
これは逆説的ですが、研究はいつもうまくいくとは限らないものです。数年間何もデータがでなくても耐えて状況を打開してきた人は強いです。逆にそのような苦労をしないで上手く成功してきた人は、人間的におもしろくありません。

7. 論文を出すこと
7番目になってしまったがこれはとても重要なことです。いかに優れた能力や研究成果を持っていても、論文になっていないと評価されません。評価の基準はたいへん悲しいことに論文が掲載された雑誌のインパクトファクター(IF)と論文の数です。極論すれば内容ではありません。なぜなら多くの人は他分野の研究内容を評価する能力が低いので、雑誌のインパクトファクターという数値に頼るのです。しかし、4で書いたように何が良い仕事かを見極める能力は重要です。IF信仰から脱却すべきです。