2012年2月26日日曜日

オシフィエンチムへ

M君は修士課程を終えて4月から社会人となりますが、卒業前に欧州に旅に出ます。ポーランドでは、アウシュヴィッツに行く計画です。

もし機会があるならアウシュヴィッツへは一度行って見ることをお勧めします。私が2000年に初めて行った時の旅行記から一部を以下に引用します。エラとは (Jagiellonian University コペルニクスが在籍した大学で1364年設立)昔、共同研究をしていました。

旧市街の中央広場のカフェ
晴れ間が見える朝となった。朝食後買い物に出る。中央広場の真ん中には織物会館があり、中に小さな店が並んでいる。10時の開館時にチャルトリスキ美術館に入る。美術館はホテルの真横の普通の建物でとても美術館には見えない。ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」を見るのが目的である。ダ・ヴィンチは肖像画を3枚しか残していないが、この作品は実際すばらしいものであった。しばらく佇んでいろいろな角度から鑑賞した。展示の中には確かに日本で見たことがある絵があった。昔、日本でポーランド美術館の展覧会がありその時に買い求めた絵葉書の絵であることがわかった。

バベル城
 12時近くにエラの車でオシフィエンチムへ。「アウシュヴィッツ」は独名である。昔からアウシュヴィッツに行くことを願っていたが、それがどこにあるかを知らなかった。今回の旅行の下調べでクラクフ近郊にある ことを初めて知った。「シンドラーのリスト」のビデオを見て予習もしておいた。駐車場にはヨーロッパの様々な国から来た車、観光バスがあった。「働けば自由になる」という有名な門をぐぐり中に入る。バラックの中の様々な展示物のすべては、大量虐殺がいかに組織的、徹底的に行われたのかを示していた。まさに、人間殺害工場である。150万人の命が消えた場所である。

 驚いたのはもうひとつのビルケナウ収容所である。「ビルケナウ」と呼ばれる当時のアウシュヴィッツ第2収容所も、現在ではポーランド語の村の名前から「ブジェジンカ」と呼ばれている。アウシュヴィッツはいわば実験場であり、ビルケナウはそれを大規模に実現したものでアウシュヴィッツの何十倍もの敷地であった。ビルケナウはナチスが撤退する時に破壊されたためガス室などは残っていない。しかし、その広大さには言葉がでないほどであった。ここには一時10万人が収容されていたという。

トラムの路線が多い
帰りに山の上にあるホテルのテラスで食事。収容所を見た後の余韻が残る状態では食事を楽しむという雰囲気はなかっ た。大学まで送ってもらい、私はエラのオフィスのコンピュータでメールをチェックして、すぐ横の公園を散策した。戻ったエラにホテルまで送ってもらい、御礼をいって最後の挨拶をする。米国の研究室を訪問する場合は夕食を一度一緒にする程度で、観光にまで付き合うことは皆無である。エラの接待は日本的である。ある本に「ポーランド人は客を親切にもてなすことを「神聖な義務」と考える」と書いてあった。

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