2013年3月8日金曜日

「満腹」のシグナルは浸透圧

論文にはそれぞれの物語があります。今回の論文は、私が頻繁にドイツに行くきっかけとなった仕事で、2007年頃に共同研究が本格的に始まりました。tanlabからは3名がデータを供給しています。この研究の過程で、栄養価学習の論文が 生まれました。最初の論文が仕上がってから発表までに3年も要した理由は、筆頭著者がこの仕事でPhDを取得してから研究の場を離れたので、投稿、改訂作業に手間取ったからです。昨年の夏に私が2週間MPIを訪問したときに連日改訂作業を行いようやく再投稿できました。2010年に投稿したときには厳しいコメントがついたのですが、時代の流れが変化したおかげで今回はす んなりとアクセプトになったのです。「時代の流れが変化した」効果とは査読者の評価が流行に影響されていることを示しています。  
 
F. Gruber, S. Knapek, M. Fujita, K. Matsuo, L. Bracker, N. Shinzato, I. Siwanowicz, T. Tanimura and H. Tanimoto

Suppression of Conditioned Odor Approach by Feeding Is Independent of Taste and Nutritional Value in Drosophila. Current Biology 23, 1-8 (2013)

ショウジョウバエの味と匂いの連合学習の解除シグナルは、甘さでも栄養価でも食べた量でもなく、食物の浸透圧であることを発見

概 要
  ショウジョウバエの匂いと報酬の連合記憶発現を制御する「満腹」のシグナルが意外なことに食物の味や栄養価に依存しないことを薬理・電気生理・行動実験を組み合わせることによって明らかにしました。本研究成果は、2013年3月7日正午(米国東部時間)にCurrent Biology誌オンライン版に掲載されます。
 

背 景
 昆虫にとって、匂いと食物を関連づけて覚えておくことは重要な学習能力です。ショウジョウバエも、砂糖報酬によって形成された連合記憶を用いて特定の匂いに誘引されますが、そのためにはまずハエが空腹であることが必要です。空腹が記憶の行動発現の動機付けになっているからです。匂いと食物を関連づけて覚えたことは、満腹になることでその記憶を使う必要がなくなります。では、記憶発現を抑制するその「満腹感」の実体は何なのでしょうか。

これまでの考えによると、「満腹」のシグナルは食べた食物の栄養価や食べた量であると考えられてきました。しかし、今回の共同研究で学習実験と摂食定量実験などを行い、連合記憶の発現を抑制する「満腹」のシグナルが浸透圧であることを解明しました。
 

内 容
  多くの動物がそうであるように、ショウジョウバエの体液でも、主要なエネルギー源となる血糖はグルコースです。昆虫の場合、グルコースは二糖類であるトレハロースを分解して産生されます。そこで、トレハロースを食べても体内で分解できないようにトレハロース分解酵素の阻害剤を混ぜて食べさせました。しか し、記憶発現への抑制効果に変化はありませんでした。

 アラビノースという糖は、ショウジョウバエにとって甘くはありますが栄養価は全くありません。このアラビノースを与えても、同様に抑制効果に変化はありませんでした。これらの結果は、食べるものの栄養価が抑制効果には重要でないことを意味しています。さらに食べた量とも関連性がないことがわかりました。

 糖に塩やカリウム、アミノ酸のグリシンを混ぜると味が変わり甘みは抑制されますが、意外なことに、これらの混合物にはすべて記憶発現の抑制効果がありました。すなわち、甘さにも栄養価にも関係なく、食物の浸透圧が 高いことが「満腹感」を抑制する有効なシグナルであることがわかりました。

 さらに、遺伝的技術を用いて、人間のグルカゴンに相当するハエのホルモンであるAKHを人工的に放出させ、ショウジョウバエの血中浸透圧を上昇させました。すると、実際にはショウジョウバエは何も食べてい ないにもかかわらず、同様の「満腹感」の抑制効果が確認されました。
 

効 果
 浸透圧は食べ物の「濃さ」の指標ととらえるこ ともできます。これが満腹感のシグナルの一部であることは、満腹感がカロリーなどの単一因子により制御されているという従来考えられていたメカニズムとは 大きく異なります。ハエの体内における空腹度に依存した摂食行動と記憶の行動発現を制御するメカニズムは単純ではないことを示しています。
 

今後の展開
 ショウジョウバエが体内に持っていると考えられる浸透圧センサーが、どのような仕組みで働いて摂食行動を制御しているのか
を知ることが次の課題です。

2013年2月2日土曜日

モデル生物と非モデル生物

生物学の研究材料として一般に「モデル生物」とされているものがいくつかある。わたしが用いているキイロショウジョウバエもそのひとつである。「モデル生物」という言葉は20年前ほどからよく使われ出したように思う。だれがこのような言葉を作り出したのか? 分子生物学が盛んになった頃からか。大腸菌が最初の「モデル生物」だろう。

キイロショウジョウバエはモルガン以来研究に使われているが、モデル生物と急に言われ出してもねという気持ちがある。「モデル生物」という言葉を使うことにわたしは少し抵抗感がある。ひとつは「私の実験材料はモデル生物だといばっている感じ」がすることだ。

昔ある会合で「ショウジョウバエは虫ではなくて実験材料だ」と冷笑的に言っていた昆虫学者いた。分子生物学から参入してきた研究者がショウジョウバエを単にモデル生物としか見ていないことを批判したものである。わたしは一貫してショウジョウバエを昆虫として研究をしてきたつもりである。

「モデル生物」が備えなければならない特徴は、遺伝的な解析手段が可能かがポイントである。突然変異体の分離、遺伝子のマッピング、遺伝子の機能阻害、トランスジェニック手法などである。

昔は「モデル生物」でなかったものが近年「モデル生物」となったものがある。先駆的なのが、Sydney Brennerが確立した線虫C. elegansである。彼は突然変異体の分離から始めてその基礎遺伝学を一人で築き上げたのである。

シロイヌナズナ、ゼブラフィッシュもC. elegansと 同様に「モデル生物」にのし上がった実験材料である。「モデル生物」の特徴のひとつに飼育の容易さがあるが、ゼブラフィッシュは多数の系統を維持するに は水槽のスペースなどがたいへんでコストは高いだろう。ただ、ゼブラフィッシュはGal4/UASの系も確立しており遺伝的解析手段は豊富だ。

私はこれまでの共同研究で、センチニクバエ、クロコオロギ、蚊、ウリミバエ、アゲハを使ってきた。蚊の飼育経験はないが、ニクバエはレバーを買ってきて、コオロギ はネズミの固形飼料でラボで飼育した。ミバエは沖縄の虫工場でサンプリングしていた。ニクバエの飼育の匂い、コオロギの共食い、ミバエは死んでいても沖縄からの持ち出しに許可がいるとか実験外にもたいへんなことがある。このような材料を身近に扱うことによって、ショウジョウバエでは研究できないテーマについても学んできた。ショウジョウバエでは絶対研究できない行動は羨ましく思っている。

ショウジョウバエはモデル生物の代表であるが、モデル生物という言われ方で見落とされてきたことがあるように思う。例えば、遺伝的に均一な系統(ショウジョウバエの利点は近親交配が可能であったこと)を用いているというが、同じCanton-Sでもラボごとに違うはずである。さらに、野外の集団にある変異が無視されてきた。

非モデル生物の研究の方が面白いということもある。ただし非モデル生物の利点を生かした研究である。モデル生物の利点でゲノムが解読されているという点については、いまやどのような生物種でも可能になっているので利点ではない。

たしかに非モデル生物の研究者は冷遇されている。よほど自分が使っている実験材料の利点を魅力的に述べないと研究費が獲得できない。またモデル生物の研究を無視していては評価されない。モデル生物ではできないような実験を行わないとトップジャーナルに論文が出ない。フンコロガシが天の川を見てナビしているという仕事のように。

その意味で今回、共同研究のアゲハの電気生理が論文が、ほとんどが脊椎動物で、モデル生物の研究ばかりが出るJournal of Neuroscienceに載ったことは画期的なのである。

2013年1月15日火曜日

Online Publication

今では新しい科学雑誌が発行されるとwebで公開されて論文をダウンロードして読むことができます(所属大学が購読をしていればです)。レーザープリンターで瞬時にカラー印刷ができるのは、ひと昔からみると夢のようなことです。インターネットがなかった時代は、雑誌が発行されてから論文を読むまでには長い月日がかかりました。

まず、Current Contentsという分野別に発行された世界中の雑誌の目次を掲載した雑誌がありました。航空便で取り寄せたその雑誌をチェックします。雑誌のうしろに論文のリプリントを請求する人の名前と住所がリストになっているのでリプリント請求葉書に記入して送ります。(だから昔は自分が論文を出したら何通のリプリント請求が来るか楽しみでした。)するとひと月以上たって通常は船便で論文が届きます。いろんな国の記念切手が貼られていて、海外に思いを馳せたことを思い出します。しかし請求して送ってくれるのは半数以下だったと記憶しています。

そういうわけですから論文が発行されてから実際に読むまでには数ヶ月のずれがあるのが普通でした。リプリントが来なかった論文は図書館に行ってコピーをとります。図書館の雑誌は船便で届きましたからこれも遅いです。このような検索、作業にどれだけの時間を要していたのでしょうか。古い雑誌の論文のコピーの時は、暗い書庫を歩き回って製本された雑誌を探し出して、コピー機のところまで抱えて持っていたものでした。

昔は時間だけでなくお金もかかりました。論文を出した時のリプリントの印刷費用、郵送料、さらにコピーに費やした金額はかなりのものでした。まあ、コピーがなかった時代には手書きで写本でしたが。

さて最近では、雑誌がwebで発行される前に印刷用の最終論文が出来上がった時点で論文が公開されるようになりました。多くの雑誌が早さを競うようになっています。また、印刷雑誌がなくオンライン出版だけというジャーナルがこれから増えてゆくでしょう。

さて、便利になったことで人間は昔より賢くなったのでしょうか?
それが問題です。

2013年1月10日木曜日

Gurdonの机の上

日本のマスコミのノーベル賞の報道は過熱しすぎるし、また世間や社会はノーベル賞受賞者を過大評価する。今回の生理医学賞はJohn Bertrand Gurdonとの同時受賞であるが授賞式の日に英国ではあまり報道されていないようだった。私はJohn Bertrand Gurdonの研究者としての生き方が好きだ。彼が劣等生だったという逸話がいい。

「中・高校のころ生物学の成績が250人中、最下位だったことがある。それでも、生物学に興味を持った。大学には他人よりも2年遅れで進み、生物学を研究 した。この経験から得られた教訓は、とても興味をひかれたものがあるなら、決してあきらめてはいけないということ。いったんあきらめると、後からやり直す のは難しい」

彼の机の上には額に入れられた成績レポートがのっている。担当の教官は「彼は科学者になりたいといっているそうだが、それはまったくばかげており、何かの科学ができるような可能性は皆無である」と書いている。これをいまなお飾っているのはなぜかと問われて答えた言葉がよい。
 
“When there are problems, like when an experiment doesn’t work, which often happens, it is nice to remind yourself that perhaps after all you are not so good at this job and the schoolmaster may have been right.”



 

付記:彼のノーベル賞受賞講演は思い出話ではなく最近の仕事をとてもわかりやすく論理的に話している。実験結果から考えるという姿勢が貫かれている。高度な実験結果について話しているのにわかりやすいのは論理がはっきりしているからだろう。

2012年10月31日水曜日

台湾

10月22日の昼にHello Kitty Jetで福岡空港からから台北の桃園空港へ飛んだ。福岡から直接出国できるのは便利だ。今回、高雄で開催される学会は、韓国、日本、台湾の大学の理学部の交流を目的としているようだが、私が言われたのは院生を連れて行って英語で発表をさせればよいことだけだった。結果的には、私自身も発表をして、いろんな人に会えて台北でセミナーもできて、よい出張となった。

時差が1時間あって、2時間ほどで桃園空港に到着、入国審査もスルーだった。ATMで適当に台湾ドルをおろしてバスで新幹線の駅に移動。バスの中の雰囲気から異国だった。桃園駅の窓口で左営までの切符を購入。

台湾高速鉄道は日本の新幹線を導入したものだから新幹線とほとんど同じだった。高雄の手前の左営までの路線である。(高雄駅では工事が行われていて、もうすぐ高速鉄道の終点は高雄になるらしい。)新幹線を降りて在来線で高雄に行こうとして自販機で切符を買おうとして迷っていたら「複雑だから窓口で買った方がいいですよ」と親切に日本語で教えてくれた台湾の方がいた。

改札を通るとその方がいてホームまで案内してくれて、この列車に乗るといいよと教えてくれた。何をしに来たかとか、住んでいるところとかしばらく雑談し ていた。昔、仕事で日本に来ていたそうで、日本語がとても流暢だった。高雄で下車するとタクシー乗り場まで案内してくれて、家がホテルの近くだから一緒に 行きましょうと誘ってくれた。ホテルで降りて周辺のことを説明してくれた。このような親切な人に会うことができてほんとに幸せだった。

夕食はホテルの近くのたぶん少し高級な中華料理店を見つけて入る。英語、日本語が全く通じなかったけど、店の人のお勧めの美味しいお料理を楽しんできた。物価はだいたい日本の1/3ほどの感覚である。

台湾の方に夕食は家で料理しますかって尋ねたら「時々ね、週末にスーパーで買ってきた食材があるときにね。いつもは安い食堂で食べてる」ということでした。ただ、別の人に聞いたら学生は家で食べることが多いと言っていた。


孫文が設立



中庭のカフェ 

翌朝8時にホテルからバスで会場の大学に移動した。国立中山大学は、海沿いの山の麓にある美しいキャンパスだった。山にトンネルがあって地下鉄の駅から歩いていく場合はそこを通る。 ある国際的なランキングによると国立中山大学は九大より上だった。この大学は孫文が設立し、中庭の中央のドームにブロンズ像があった。


今回が2回目だというこの学会に参加してみて感じたのは、もう少し積極的に参加者が交流する機会があればということ。例えば、参加した日本の院生は台湾や韓国の院生と言葉を交わしただろうか。私はできるだけ話すようしていたが、院生にとっては(言語の)壁があるようである。来年は新潟大であるそうだが大変だと思う。台湾サイドは引き受けたからにはすべてちゃんとやるという態度だった。


学会ではまず基調講演があったが、数学や物理など専門外のものは当然あまりおもしろくなかった。その後、数学、化学、物理、生物、地学に分かれて、教官と院生の発表があった。私も味覚について講演をして座長を務めた。なぜか教官の講演が多くて院生の発表は少ないように感じた。九大の生物から院生は1人だったが、新潟大は3名だった。


分科会ではいつもは聴くことがない発表はおもしろかった。次世代シークエンサーを用いて配列を手当たり次第にリードして微生物やウイルスを同定するというやりかたで、キムチ、ザワークラウトなどの発酵食品に含まれる微生物やウイルスを同定していた。キムチを食べる時には何百種類の微生物とウイルスも食べていることを知った。また、海の中は微生物やウイルスの宝庫でおびただしい種類がいることも。ウイルスの30%ほどは未同定のものだった。

ホテルでのバンケット

最初の日はホテルに戻って豪華な晩餐会があった。出された料理はとても美味しかった。たいてい食べきれないほどの料理が出るが、残ったものはパックしてもらって持ち帰りにしていた。米国では"Can I have a doggy bag?"というが、台湾でもこの習慣があるようでした。


六合夜市

2日で学会は終了した。夕食は大学でのケイタリングだったので早くホテルに戻り、新潟大の人たちと六合夜市を歩いてから地下鉄の美麗島站のステンドグラスの「光之穹頂(The Dome of Light)」を観た後に、ホテルの近くの東京酒場という店でビールを飲みながら歓談した。




地下鉄美麗島駅

翌日はエクスカーションがあったが参加しないで、早起きして6時から朝食を食べてタクシーで高雄駅に行き地下鉄で左営に向かい新幹線で台北に戻った。中央科学院分子生物学研究所に向かった。知人のラボを訪問してセミナーをすることになっていた。中央科学院にはあらゆる分野の35の研究所があって、そのうち7つほどが生物に関するという。たぶん日本の理研レベルの研究所だろう。訪問者のセミナーは毎週行われているようだった。セミナーの後はラボで数人の院生から最新の研究成果を説明してもらったが、すべてとてもすばらしい研究内容だった。

セミナーの後は夕食会だった。6人のneuroscientisと食事をした。2人は上海からの中国人で明日から学会に出るために来た方だった。台湾の研究者と中国の研究者が何の壁も無く仲良く談笑しているのが見れてよかった。店の方とも楽しく話していた。上海よりも台北の方が物価が安いという。その店には輸入ビールしかなかった。上海から来た人が台湾のビールが飲みたいと言ってお店の人が買って来てくれた。しかし困ったことは、会話がすぐに中国語になってしまったことである。英語は皆がペラペラなんですが。


2012年9月25日火曜日

ドイツ、イタリア、フランス


帰国はパリのホテルを朝8時過ぎに出て11時発のフライトだった。機内ではほとんど寝ないで12時間後の朝6時に羽田着、すぐに乗り継いで福岡へは9時過ぎに到着。だから1日が継続している感じである。シャルル・ド・ゴール空港の出国口がこれまで見たことがないような長蛇の列で、ゲートにたどり着いた時には搭乗が始まったところ。不審物が見つかったので検査が強化されたようであるが、シャルル・ド・ゴール空港ではよくあることだ。いずれにしてもホテルを出てから家に着くまで待ち時間なしだった。

スーツケースの中身を取り出して一休みして家を出て、天神で定期券を購入してラボに来た。昼間の町が夢のようだった。あるいは、欧州の旅が夢だったのかもしれない。バターが溶けるほど福岡は暑い。欧州では暑さが懐かしかったのに。

見る人間が同じ人種だけなのは違和感がある。パリでは肌の色が異なる多くの人種がいることが日常の風景である。日本では、どこにも落書きが無くて電車が秒単位で正確に動いている。 ドイツの鉄道は正確だが、イタリアやフランスではありえないことだ。特にイタリアの新幹線の遅れはすごかった。

Max Planck Institute of Neurobiology

今回のマックス・プランク研究所のラボにはいつものメンバーに加えてサマーコースの学生がいた。彼女はバングラディッシュ出身のオックスフォードの学生で2ヶ月の間、朝早くからラボに来てテーマを与えられて実験をしていた。大学で公募しているこのプログラムに応募して認められると、旅費や滞在費が支給されるという。学部の3年くらいで世界の一流のラボに短期滞在するわけである。マックス・プランクには世界中の優秀な人が集まってくる。このラボは、ドイツ人は半分ほどで、あとはトルコ、キプロス、中国、日本、イスラエル出身の人である。

Neurofly 2012

Verona スカリジェッロ橋
ミュンヘンでの滞在を終えて空路Veronaに移動した。学会が開催されるPadovaには空港がないので、ヴェネチア、ボローニャ、ヴェローナ空港に飛ぶ選択があったが途中で立ち寄るのにヴェローナは良いところだった。ルフトハンザ便で予約したが、イタリアのキャリアのプロペラ機で機内はイタリアの雰囲気だった。バスでヴェローナ駅に移動して荷物を預けて歩いて旧市街を歩いた。コロシアムの近くのカフェで初めて飲んだSpritz Aperolがおいしかった。

暗くなってからPadovaに列車で移動しホテルへ。翌日、旧市街に出てみた。柱廊がある町並みで静かな雰囲気だった。パドヴァはイタリア観光ツアーには組み入れられていないようだ。宿泊したホテルには、連日各国のツアー客が宿泊していたが、このホテルが高速道路の近くにあり、ミラノとヴェネチアの中間点にあるからなのだろう。早朝、ツアー客はバスに乗り込んで去っていった。

伝統あるCaffe Pedrocchiで昼食。しばらくして学会の受付を済ませる。開会講演はPadova大学の伝統が染みついたような講堂であった。1222年設立で、コペルニクスが学び、さらには、ダンテ、ガリレオ・ガリレイ、詩人ペトラルカなどが教鞭をとっていたという。開会講演の後に、会場をかえてwelcome partyがあった。ラジョーネ宮Palazzo Ragioneというこれも古い建物で、内部には木製の大きな馬がおかれていた。国内外の多くの知人と挨拶を交わすことができた。

次の日からの会場は郊外にあり学会がチャーターしたバスでホテルからの往復だった。私たちの口頭発表は学会のバンケットの翌日。バンケットの席は丸いテーブルにわかれていたが、同じテーブルにセッションの座長である人が座ってくれたので親交を深めることができてよかった。

私たちが発表したアミノ酸の仕事は、直前に発表した私たちの論文を見てやられたと思った人が複数いた。このような裏話はしばらく話をしていないと出てこない。世界中の研究者が思いつくことは同じで、問題はそれをいかに行うかが肝要である。もし同じことを行っていることがわかれば相談して同時に同じ雑誌に投稿ができる。先を起こされると下のランクの雑誌にしか投稿できない。したがって、人のつながりと情報入手が重要なのである。

英語において大切なのは議論をすることである。書くことと聴くことの他に一番大切なのは自ら話すことである。興味ある講演をした人は必ずあとでつかまえて話をする。話をするにはその研究の背景を知っていないと話にならない。これまで国際学会に参加した院生には、できるだけ相手をつかまえて話しかけるように言っているがほとんど実行できていない。

学会の間、昼食は隣の大学の食堂で食べたが、パスタとメインが選べてイタリアの食の豊かさを実感した。食後のカフェとデザートは別のテラス席でとった。ヨーロッパの学会はお昼休みがたっぷりとある。

Paris

学会が終わってからパリに戻った。パリはもう慣れている。12年間ほとんど毎年来ているヴェルサイユの研究所への訪問も今回が最後である。ラボがもうすぐ別の所に移転するからである。夕方までサイエンスの話を続けた。パリでの最後の夕食は、カルチェ・ラタンの近くのチュニジア料理店でのクスクスだった。

今回は、ドイツ、イタリア、フランスと計3週間も滞在して、それぞれの国の違いと良さを続けて比べながら感じ、味わうことができたという意味で、これまでにはなかった旅であった。研究面でもわたしたちの仲間と相手がどのような人であるかを知ることができた。今回の旅の経験を糧として、新たな気持ちで研究に臨みたいと思う。

Spritz Aperol

2012年8月4日土曜日

杜の都に舞い降りて......

仙台空港への着陸は海側から降りてゆく。津波が空港の滑走路を越えていったあの映像を思い浮かべながら久しぶりの仙台に着陸した。ぼくが10年の青春時 代を過ごした場所だ。ここでぼくの進む道と生き方が決まったといってよいだろう。だがそれが「美しい季節だったとは誰にも言わせない」(ポール・ニザ ン)。ターミナルビルも仙台駅までのJRも完全に元通りになっていた。ただ、福岡-仙台のANA便は初めて聞くIBEXエアランズの運行で、空港で飛行機 まで長く歩かされて機内も狭くてさびしく思った。

仙台は「杜の都」とよばれている。最終日のポスター会場が近くだったので昼食を食べに東北大の川内キャンパスに行ってみた。キャンパスは青葉山のふもとに あるが、周囲にこれぼど緑が多かったのかと認識を新たにした。緑の記憶は残っていなかったのだ。懐かしい食堂の建物は昔のままであったが内装がきれいで、 横にはモダンな食堂もできていた。

仙台の牛タンがこれまでに有名になっているのは不思議だった。私が学生だったときも牛タンの店はあったが、たしか数軒だった。それが今ではあらゆる場所に ある。仙台牛はいるのであるがとても賄いきれないと思う。牛タンはアメリカから輸入されたものだ。福岡の名物の明太子の材料が北海道などから来ているのと かわりはないのだろう。

夜、店に入ろうとしたら3軒とも、もうすぐ終わりですといわれた。10時半に閉店だった。昔よく行っていた「無伴奏」は とうの昔になくなっている。しかし、Klebierという喫茶が同じような雰囲気であるということを知って行ってみたが、すでに3年前に閉店していた。一方で、スイングというジャズバーはアドリブとなって残っていた。いつものようにMal Waldronの"LEFT ALONE"をリクエストした。レコードをかける店は少なくなってゆくのだろうか。2時間ほどいたが客は私たち以外、来なかった。

 井上ひさしの小説「吉里吉里人」には、昔の仙台駅での有名な東北弁のアナウンスが紹介されている。

「しんだぇ、しんだぇ。どなたさまも落ちるかだが死んでからお乗りください。」

大阪弁や博多弁と異なり東北弁は自慢してしゃべる方言ではなかった。東京に出てきた東北人は訛りを隠すのに苦労していたのである。しかし、新幹線ができた頃からそのような雰囲気は弱まってきたように思う。

仙台市内では、震災、津波のことを感じさせるものは多くはなかった。しかし、市内を離れて北に行くと、復興がほとんど手つかずのままの風景がひろがってくるはずである。