2011年12月24日土曜日

2011年

倦むこともなく、流れが岩から砂粒を剥ぐように、
人間も死によって人間性から剥がされて、ひとりひとり、
永遠の忘却の、巨きな拡がりのなかの無名の物質をみたしてゆく。
大海にも、日の明るい狭い岸辺があって、
深淵の深さを忘れさせてくれるように、
人間にも、声の還らぬ死者たちを守りながら、巨きな闇をふちどる、
黄金にかがやく岸辺がある。
人が描いたり、書いたりするのも、たしかにそのためだ。

                                                ピエール・ルヴェルディ(1889-1960)


今年を振り返って考えること。上の文章は、わたしが好きなある出版社が年頭の挨拶に用いていた文章である。今から何十年も前のことである。時折この文章を思い起こして励まされるが、東北の地で多くの方々を天に送ったこの年、わたしの研究室でひとりの院生を亡くした今年、そう感じる。

今年はわたしが若いときに聴いていた音楽を聴くことが多かった。そんな曲を聴くことができる店にもよく行った。先日、京都の古風なパブでJudy Collinsの歌に再会した。たぶん、ピエール・ルヴェルディの文章に出会った頃に聴いていた曲である。福岡に戻りyoutubeで探していたら、My Fatherという美しい曲に初めて出会った。

生き延びたわたしたちは、還らぬ死者たちの声と夢を聴き取って、歩み出すのだ。 


2011年11月10日木曜日

アゲハチョウが植物を味で見分けて産卵する仕組みを解明

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10年越しの共同研究の成果がようやく論文になりました。この共同研究は、JT生命誌研究館(BRH)で吉川先生が立ち上げられたプロジェクトで、尾崎さんが研究を始められ、私とフランスのフレッドのラボのメンバーが協力させていただきました。日仏共同研究の成果でもあります。以下はプレスリリースした文面です。

JTと九大でのプレスリリースの結果、ほとんどの新聞社が朝刊の記事にしてくれました。これはめったにないことだと思いますが「アゲハ・産卵」ということが一般受けしたからでしょう。各社の取材とメールや電話での対応に4時間以上の時間をとられましたが、これも研究者の社会に対する責務と思います。

ただ、取材を受けていて「遺伝子とは何か」の基礎的な理解を記者の方に持っていただきたいと思いました。遺伝子とタンパク質の関係について以下のようなことです。

「すべての細胞には中央図書館である核があって、核のなかの染色体に含まれるDNAに遺伝情報が書き込まれています。それぞれの細胞で必要なタンパク質をつくるための情報を図書館でコピーします。それがmRNAです。mRNAにはタンパク質のアミノ酸の並べ方の情報があります。」

☆ 概 要
 アゲハチョウ(ナミアゲハ)のメスは前脚で植物の葉の表面に触れて“味見”をすることで、幼虫が食べられる食草であることを見分けます。JT生命誌研究館の尾崎克久研究員、吉川 寛顧問らを中心とするグループとの共同研究によって、その味覚受容体タンパク質の分子的な実体を解明しました。本研究成果はNatureの姉妹紙のオンライン科学誌「Nature Communications」(1116日付)に掲載されました。

☆ 背 景
 アゲハチョウの幼虫は特定の植物だけを餌として発育するので、アゲハチョウのメスの成虫は植物種を正確に識別して適切な植物に産卵しなければいけません。そのためにアゲハチョウは前脚で葉の成分を“味見”していますが、そのためには葉に含まれる複数の化学物質の存在が必要であることがわかっていました。しかし、どのような味覚分子センサーが関わっているかは謎のままでした。

☆ 内 容
 本研究では、アゲハチョウの前脚で働いている遺伝子を解析し味覚受容体の候補遺伝子を発見しました。その遺伝子を昆虫の培養細胞で強制的に発現させて、葉に含まれる産卵刺激物質の一つであるシネフリンに対して特異的に反応することを確認しました。さらに、”RNA干渉法”とよばれる手法を用いて受容体の遺伝子の発現を抑制したアゲハチョウでは、前脚跗節にある化学感覚子のシネフリンに対する感受性が低下していることを電気生理実験により確認し、同時に産卵行動が抑制されることを観察しました。

☆ 効 果
 これまで、遺伝子レベルの研究が進んでいなかったチョウにおいて、産卵行動における味覚の役割を分子レベルで明らかにした成果はユニークです。今後、宿主と昆虫の関係を明らかにすることによって害虫の防除にも役立つ可能性があります。

☆ 今後の展開
 昆虫の食草の認識機構に何らかの変化が生じた場合、食草の変更が起こり、それが、種分化・進化の出発点となる可能性が考えられます。行動と遺伝子の進化の研究が今後展開していくことが期待されます。




2011年11月1日火曜日

もう11月

10月のブログ更新は1回だけでした。9月末に波乱のロシア旅行から戻り次の週には金沢に出かけました。金沢は学会でしたが食の世界がよかったです。その後は押し寄せてくる締切とたたかっていました。日曜日には徹夜もしました。でもまだ締切が過ぎた用件が山のようにあるのです。論文の査読もこのところ断っています。

            金沢で食した治部煮

2011年10月18日火曜日

エルミタージュにて

帰国前日の日曜日にペテルスブルグ市内に移動した。市内のホテルのフロントの人は英語が喋れて親切だった。ただ泊まったエコノミーホテルは一般住居建物のフロアを宿泊施設にしたところだったのでたどり着くまでが大変だった。住所は合っているのにホテルがない。しばらく彷徨って、裏通りから中庭に入ると入口らしき所を見つけた。呼び鈴を押してドアのロックを数秒間解除してもらっている間に中に入るというシステムが最初わからなかった。

                   ホテルの入り口

荷物を置いて近くのエルミタージュ美術館に出かけた。正門のすぐにある自動発券機で入場券を購入すると並ばないで入ることができる。エルミタージュ美術館はルーブル美術館の10倍以上の所蔵作品を有する世界一大きな美術館である。建物も絢爛豪華で、できれば2日かけてゆっくり見るのが良い。この美術館の展示の仕方はまったく無防備である。ダビンチの絵画を除いてほとんどの絵を間近に見ることができる。窓を開けていたりで太陽光に対しても気を遣っていない。

人は何のために絵画を見るのだろうか。ぼくは絵と出会って対話したいと思う。何らかのメーセージを聴きたいと思う。エルミタージュ美術館のある絵の前でぼくは長い時間立ち続けていた。レンブラントの大作である。もう一度ロシアに来る機会があるかわからないのでじっくりとこの絵を見たいと思った。

ガイドに案内された団体が入れ替わりでやってきていろんな言葉で解説を聞いて、多くの人が絵をデジカメに収めて通りすぎて行く。中国人は絵をバックに写真を撮るのが好きだ。ロシア人のガイドがきれいな日本語や中国語を話していた。

日本語と英語のガイドさんの話を聞いていると、この絵についてぼくが知らなかったことも話していて勉強になった。「この絵を観るためにエルミタージュに来る人もいます」という解説に頷いた。それはぼくだ!

             ロシア人ガイドの説明を聞く中国の団体一行


有名な絵をこのように観光として観て何になるかと思う。たぶん見たということが重要なのであろう。ぼくは一枚の絵の前にひとり立っていたいのに団体の流れは途切れないのだ。なぜ人は絵を観るのかという問いは、なぜ人は絵を描くのかという問題の裏返しではないだろうか。

そしてこの問いはさらに音楽や映画にもつながってゆくのだろう。言葉で書くのではなく、絵で、音楽でこころを表現するのではないだろうか。ぼくが一枚の絵の前に立ち続けるのは、ぼくが気に入った音楽を何回も聞き続けるのと似ているかもしれない。

2011年9月26日月曜日

サンクトペテルブルクの郊外にて

市内のホテルではフロントの人は英語が話せるが、学会が開催されたのは郊外のホテルだったので、貴重な体験ができた。

ホテルの受付に近づいてゆくと座っている女性が両手を横に振って来ないでと言っている。英語はだめだというサインである。ホテルの中にはなぜか迷彩色の服を着た軍人と思われる人がいる。

ホテルの地下のバーは降りていっただけではわからなかった。ドアを開けて入って歩いてゆくとバーがあった。たぶん日本の70年代頃の雰囲気である。入り口には用心棒の様な人が座っている。怪しげな赤と緑の照明の中、大音響で音楽がながれている。サーブする女性は絶対微笑まない。ウオッカのショットグラスが60ルーブルほど。朝の5時頃、酔っぱらいの現地の人たちが大騒ぎしてホテルから出て行った。

3食の食事はほとんど同じものが出る。自分でサーブする形式である。ワインはひどくまずいのでビールを買う。レストランのカウンター横のビールが置いてあるショーケースは常にロックされていて売り子の人にロックを外してもらってから開けることができる。なぜかいつも釣り銭がない。500ルーブル紙幣で釣り銭があるほどのビールを買わなくてはならなかった。ロシアのビールは100ルーブルほどであるが260ルーブルのドイツの輸入ビールを飲んだらとてもおいしかった。

ここに来る前にモスクワに3日間滞在していた米国人がいた。ガイドを雇って観光してきたという。ガイドがいないとどこに行くにも不自由だろうと言っていた。ヨーロッパから来ている人もロシアは初めての人ばかり。どこの国の人も査証を得るのに苦労したことを聞き安心した。

バスには車掌さんがいる。制服でないので最初はわからなかった。日本でバスに車掌がいたのはいつの頃であろうか。日本のバスの車掌さんはドアの横に立ってドアの開閉をしていた。ロシアの車掌さんは席が空いていると座っている。おかしかったのは、車掌がカードリーダーで乗車カードのチェックをしていることだった。


ペテルスブルグの地下鉄は核戦争の時のシェルターとして地下深く作られている。下が見えない。

ここで生き延びることができればたいていの国で大丈夫だと皆で話していた。

2011年9月9日金曜日

ロシア共和国入国査証取得までの道のり

外国に短期で行く場合に査証が必要なことは少なくなってきた。アメリカ合衆国は電子申請が必要でこのところ厳しくなったが。今回、ロシアで開催される学会に参加するために査証が必要だった。

学会に参加する場合はロシア内務省が発行する招聘状があれば問題なくビザが発行される。ところが、手違いがあって私には招聘状が届かなかった。その場合は、宿泊するホテルからの招聘状があればよいということで発行してもらった。申請には東京、札幌、大阪または新潟の領事館に出向く必要がある。行けない場合は、代行業者に代理申請してもらう。発行まで通常1週間かかるので2度東京に行くことを考えると1.5万ほどの手数料は仕方ない。

ロシアに一人で旅行する人はあまりいなく団体が多いと思う。その場合は、日本の旅行業者が手抜かりなく書類を作成するだろう。申請にはホテルのバウチャーと旅行業者が作成した旅行証明書が必要だという。旅行代金が支払われており現地では旅行会社がすべて面倒を見るという証明である。

さて、1回目の申請は、ホテルが作成した招待状にロシア外務省が発行した6桁の数字が書いていないという理由で受け入れられなかった。7桁の数字が書いてあったが6桁の数字が書いてあるはずという。学会主催者に助けを求めたところ旅行業者に旅行証明書を作ってもらうことになり送られてきた。そこには6桁の数字があった。その書類でロシア大使館に行ってもらったが、ホテルの滞在の日程と旅行業者の書類の日程があっていないということで受理されなかった。ホテルの宿泊は実際の宿泊とあっていたが、なぜかもうひとつの書類では1日短くなっていたのである。ロシア人はおおまかですね。

何回も書類の依頼をして、最終的に送られてきた10枚目の書類で上手くいった。スキャンした書類はすべてメールの添付で送られてきたが、コピーで良いというのは助かった。日本ではコピーの書類は認められないから。東京の業者、領事館、現地のホテル、学会担当者を相手にたいへんな2週間だった。

最終的に査証がもらえるのは来週の木曜日なので、私は金曜日に東京の旅行代理店に寄って査証がついたポスポートを受け取って、土曜に横浜の学会で話をしてその日の夜に成田から出発します。手続きがあと2日遅れていたらアウトだった。ロシアに行くのは諦めるしかないという思いが頭をよぎったことが1回だけあった。

1997年にロシアに行ったことがある。そのときの様々なトラブルの経験から、今回は何があっても驚かない、これで大丈夫と思っても裏切られることがあると覚悟していたが、まさか出国前にこのようなトラブルが待ち受けているとは思わなかった。

ロシアへの航路が少したいへんです。パリに早朝着いて、乗り継いでフランクフルト経由でサンクト・ペテルスブルグのホテルに入るのは夕方になります。

マルシェ

昔、共同研究の話し合いのためにひとりでディジョンへ行きました。訪問先のJが、明日の朝にマルシェに買い物に行くけど興味ある?と聞かれたのでもちろんと答え、朝、ホテルから待ち合わせ場所に出かけていった。彼の家庭では買物は彼の担当だそうだ。すべての食材を毎週マルシェで買うという。野菜、肉、魚、チーズなどあらゆるものを買うのにつきあった。ディジョン中心部ののマルシェはバレーコート2面分のほどの建物とその周囲に出ていた。Jは、店の人とは知り合いで、特に野菜売り場の人とは親しいようだった。挨拶を交わして雑談しながら買い物をしてゆく。チーズ売り場では青カビまみれのやぎチーズを勧められて日本へのおみやげに買ってくれた。買い終わると彼の登山リックが一杯になった。ラボに行って冷蔵庫に収納した。マルシェは好きでいつもパリで歩いて見ているが、現地の人が買うところを実際にみることができてとてもよい経験だった。

フランスでも大型スーパーができてそこで買物をする人が多くなっているが各地でマルシェは健在である。現地の人とスーパーに行ったときに、大量生産されていてどこでも売っているチーズをカゴに入れたらこれはやめておいたほうが良いと言われてた。そして売り子の人がいるスーパーのなかのチーズ売り場に行って、相談しながらお勧め現地特産のチーズを買うことができた。地方の特産物に対するフランス人の思い入れを強いことを感じることができた。